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水谷興志
日本的なるもの

桜が咲いている。
春の眠たげな大気と新芽を吹き出している木立の中に一際艶やかな姿を際立たせている。満開の桜はそれ自体の美しさとそれを取り巻く空気との対比で一層美しく見えるのである。私はおもむろにスケッチブックを取り出して写生をはじめる。
鉛筆で風景全体の構図をデッサンし、水彩絵具と色鉛筆を使って描いていく。桜と周りの空間との関係を描写しながら、光と影の調子でその存在を表現していく。目の前に見えるモノとして、桜の淡いピンクの色のフォルムも風景全体の中の部分として把えていく。そういう風に今までは、学生時代に受けた美術教育の延長で写生をして来たのである。しかし、なぜか次第にその表現に不満を感じてくる。何か物足りないのである。
桜のある風景ではなく、桜そのものを描きたいという欲求が沸いてくるのである。スケッチブックを放り出して、暫し桜の樹の下で満開の花を仰ぎて考える。
桜は牡丹や菖蒲の花と違い、小さな花が集まって一つの大きな花となる。桜の樹自体が大きな花なのである。遠くから見ると、五弁や八重の小さな花びらは、ほとんど淡いピンクの色の塊としか見えない。現実の桜はそう見えるのだが、絵にした時、その小さな花が描かれていないとなぜか桜のイメージになってくれないのである。
そこで桜の小枝を丹念に写生してみる。枝についた花は横を向いたり後ろ向きであったり、様々な形をして咲いている。しかし確かに見えたとおりに描いているのだが、逆に実感としての「桜」のリアリティに欠けるのである。私の想う「桜」のイメージと現実の桜の樹とどう結びつけて描いていけばよいのか再び考えるのである。
花を愛でる日本人の感性の象徴である桜は、古くから多くの絵画文芸作品の題材として扱われて来た。梅とは違い、桜は樹同士で花の合図でも送り合っているかのようにその地域で時を同じくして一斉に咲き誇る姿は実に不可思議である。
桜の咲いている期間は一種不安定なソワソワと落ち着かない気持ちになり、散ってしまうまでに一目仰ぎ見てみたいという感情に急き立てられる。そういう日本人の桜に対する想いと桜の樹の下で人々が集い、歌い踊り、自然に溶け込もうとする風習は、絵画表現にも影響を与え、日本絵画において独特の表現をする。
桜を描いた古典作品を見てみると、花はほとんど正面を向き(日本がまだ生活に慎ましさがあった頃の家の障子の破れに貼った桜の花の透し絵の形である)に描かれている。それが様式的に版で押したように集団として描かれているのだが、不思議と違和感を感じさせない。現実にはありえないのだが、それこそあの「桜」の華麗な姿に近いのである。

水谷興志

 

日本画とは


洋画と呼ばれる西洋画法に対して、明治以降、慣用的に用いられるようになった伝統的な日本の画法のこと。現在では、日本画の西洋画的表現が多くみられるようになり、その境界がなくなりつつあるが、一方で固有の技法を保ちつつ、新たな日本画の挑戦がはじまったとも言えるでしょう。
日本画を描くためには、基底材となる紙や布、筆、絵具、膠など使われます。日本画のもつ独特の質感は、それらの融合によって得られ、作家の表現力が重なることで日本画として完成するのです。しかし、日本画を描くための工程は非常に煩雑で、多くの知識と経験が必要となり、作家自身の個性とともに画材をも生かすことが不可欠とされてくるのです。
岩絵具

岩絵具
天然に産する鉱物を原料とした日本画の絵具。原料となる鉱物から不純物を取り除き、細かく砕いて絵具として使われる。その際、沈殿速度を利用した水簸による精製の工程を行うが、どうしても微量の不純物が含まれてしまう。そのことがかえって人造にはない、絵具としてより深みを増した美しさを持つ結果となる。 しかし、現在ではその希少性と色数の問題から、ガラスからつくられる人造岩絵具が多く使われるようになった。

 

例.
群青 = 藍銅鉱(アズライト)
緑青 = 孔雀石(マラカイト)
辰砂(朱) = 硫化水銀

同じ原石からできた絵具でも、粒子の粗いものは色が濃く、細かいものほど淡くなる。その分類は十数段階に細分化されており、番号が増えるにつれ、粒子も細かくなっている。

胡粉(ごふん)
室町時代以降、現在に至るまで使われている白色顔料。その原料は、イタボガキなどの貝殻を数年に渡り風雨にさらし、有機分を除いて精製、粉砕、乾燥してつくられる。その発色は柔らかく暖かみがあり、他の絵具と混ぜて使われることもある。
貝殻を白色原料として使用するのは日本だけ。

 

 

<岩絵具>

 

 

 

 

 

       

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