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「かた」と「かたち」の侵犯領域
山崎省三
先日、有元容子さんの近作をまとめて拝見する機を得た。二十点余の山の連作といったものであった。
しかし、山が主題であるとしても、この近作群には、風景として眺め写した山は一点もない。画家は山を歩く。例えば山路をのぼり森を抜け、一瞬、目前に迫る山塊に接するとか、峠に立つその足下の大地が谷に下り、また盛り上がり立ちあがって空に向かっている。そうした山塊の中に画家はいる。
山には違いないのだが、そこに描かれているのは大地の巨大なる塊であり、その塊が動めくが如くにしてつくり出した襞が谷であろう。こんもりとした闊葉樹の森、鋸歯状につらなる針葉樹の群生が山肌を点綴し、谿からは山気が雲のようにわきたつ。そしてこうした山塊を包む大気は朝陽に色づき夕陽に染まり、雲が立ち、雲が流れる。山の端は光り、かげり、霧にまかれる。すべては動き生きている。この限りなく大いなる動めくもの、それを有元さんは捉えようとしているのではないだろうか。微視と巨視の複眼で。描くというよりは、つくるといったような方法で。私は、微光を発する和毛におおわれたような山肌の觸覚を樂しんだり、森の吐息に噎せるような緑青の色面の鮮烈さに唸ったりしながら、いつか生きている自然の実体に観入している気分になっていた。
はじめて有元さんの絵に出会ったのは二十年ほど前のことで、創画会展に出品していた頃ではなかっただろうか。彩色が剥落した古い仏画にも通う模糊とした空間の中に、誕生仏にも似たういういしさで、蓮池の中に坐している幼な兒、そうした趣の絵が記憶にある。それから幾年かして夫君利夫氏の死後、唐津の中里隆さんの窯に身を寄せて陶芸に打ち込み、土と釉と火が作るマチエールによるものの表現法を手にしたことであろう。二、三年して発表された雑器類の、勁く、それでいながらすらりとした曲線をもった暖かいかたちに魅せられた人は多かった筈だ。ひるがえって近年の山を思えば、山塊はまた器形に似て緩やかな神奈備山の姿をしているのに気付く。これは有元さんの「かた」なのであろう。
やがて器とともに再び絵を発表し、グループ展に大作を陳べたりしはじめる。それらの作品も山であったり島であったり、陶土を思わせる茶褐色系の大地の塊であった。そうした作品を拝見しながら私は、厳島とか瀬戸内の島々、JR中央線の車窓に展開する山波のあれこれを懐かしんだものであったが、そのころは、マッスを画面空間の中に配しているような気配があった。それからまた三年ほどは経っていようか、その間に、彼女は眺めることから参入することに、描くことからつくることへと歩んで行ったようにみえる。しかも考え考えてというよりは、こうしたいああしたいという思いが、和紙を揉んでみたり、滴し込みを、砂子を試み、岩絵具の代りに土そのものを使ったりしての創造作業となる。行く先は見えていながら、揉んだ紙の皺がイメージを觸発すればふと手はそちらの道へ入り込み、といった工合にしながら作品は成るのではないだろうか。
私はしきりに琳派のことを思っていた。「かた」という抽象化され概念化された、人がたとか型染とか歌舞伎や能のかたというものを、「かたち」という個々別々の具体的な在りよう、この両者のどちらと決めつけられない侵犯領域を考えていた。光琳の燕子花図、紅白梅、宗達の牛も田家早春も、それらはその極北にあるものだろう。その光琳が、顔や手足などはおおよその見当をしるしておいて、あとは宙で「ぐゎさぐゎさ」と書きなさい。そうすると絵は生きてくるものだ。構図などは厳格に決めてかかるものではない。という手紙を遺していることもおもしろい。「かたち」は「かた」にちという方向を示す接尾語をつけたものともいわれるが、私はいっそ「かた」に血を通わせたものが「かたち」だと言いたくなる。そんなことを考えながら、また一方で、栂尾・高山寺に伝わる明恵上人愛蔵の木彫子犬とか、ロマネスクの聖母子像が浮かんでくる。有元容子さんのうぶな資質と、表現の直截さが私にこんな思いを抱かせるのであった。
<2000年 有元容子展 彌生画廊図録より>
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