美のあるところ — 第3回

私たちは作品をどう見ているのか

青花の水注と、手元に置かれたオークションカタログ、書き込みのあるノート、眼鏡
オークションの下見。カタログとノートを手元に、作品を一点ずつ見ていく

古美術の仕事をしていると、「作品のどこを見て判断するのですか」と聞かれることがあります。釉薬を見るのか、高台を見るのか、形を見るのか。もちろん、それぞれに見るべきところはあります。しかし実際には、一つひとつを決められた順番で確認しているわけではありません。

ある程度経験を積んだ専門家であれば、多くの作品について比較的短い時間で大まかな判断をしています。一見すると、何か特別な感覚だけで判断しているように見えるかもしれません。日本では昔から「目利き」という言葉も使われてきました。しかし私は、この言葉をあまり使いたいとは思いません。何か特別な人だけに備わった能力、いわばスーパーパワーのように聞こえてしまうからです。実際のところは、もっと地道なものです。

短時間で見るために、長い時間をかける

海外のオークション会社で働くスペシャリストたちと話していても、作品を見る感覚には共通するところがあります。そして、その背景には長い勉強と下積みがあります。

彼らは、美術史や考古学などを大学や大学院で学んだうえで、さらに専門的な教育を受ける人も少なくありません。たとえばSotheby’s Institute of Artでは、美術史やアートビジネス、作品研究を専門的に学ぶ教育が行われています。Christie’s Educationも長年にわたり美術とアートマーケットの専門教育を担ってきました。また中国をはじめとする東アジア美術であれば、SOAS(ロンドン大学東洋アフリカ研究学院)のように、美術史と考古学を専門的に学べる大学院もあります。

もちろん、そうした教育を受ければすぐにスペシャリストになれるわけではありません。私が見てきた大手オークション会社では、インターンなどを経て部門に入り、カタログ制作やアドミニストレーションを含む細かな仕事を繰り返しながら、膨大な数の作品に接していきます。そうした下積みを経てスペシャリストとなり、さらに経験を重ねてシニア・スペシャリストや部門を統括する立場のデパートメント・ヘッドへ進んでいきます。

日本の古美術商は制度こそ違いますが、似たところがあります。他店で数年、かつては十年以上にわたって修業することも珍しくありませんでした。そこでは作品の知識だけでなく、作品の扱い方、商売の仕方、人との接し方まで身につけていきます。つまり、海外と日本では仕組みが違っても、何の蓄積もないところから突然、作品を見る専門家になるわけではありません。

専門家は短時間で作品を判断することがあります。しかし、短時間で判断できるようになるまでには、長い時間がかかります。

良い作品を見る

私自身、祖父や父、そして業界の先輩たちから繰り返し言われたことがあります。「良い作品を見なさい」ということです。

優れた作品は、心にも頭にも強く残ります。姿形の美しさ、釉薬の表情、絵付の筆致、全体の佇まい。そうしたものが自分の中に刻み込まれていくことで、次に作品を見たときの比較の軸ができます。

私は独立してから、国内の主要な美術館をできる限り見て回り、海外へ行けば大英博物館、ギメ美術館、メトロポリタン美術館をはじめ、欧米やアジアの美術館を訪ねました。オークションでロンドン、パリ、ニューヨーク、香港などへ行く際にも、時間があれば別の都市を経由して美術館を見ることもありました。

デジタルカメラを使うようになってからは、展示されている中国陶磁をまず撮影し、その後でもう一度展示室を回って、一点ずつゆっくり見るようにしていました。気になった部分は写真として残し、後で確認できるように自分なりの資料を作っていきました。中国では窯跡や博物館を訪ね、発掘資料を見て、報告書や研究書を集めました。可能であれば研究者や学芸員とも話をしました。こうした作業を何度も繰り返してきました。

ただし、優れた作品だけを見ていればいいわけでもありません。同じ窯で作られたものでも、さまざまな出来や形、作り方があります。仕事として作品を扱うのであれば、その幅を知らなければなりません。名品を見ることが自分の中に「基準」を作る作業だとすれば、数多くの作品を見ることは「幅」を知る作業なのだと思います。

作品をたくさん見れば、作品が分かるようになるわけではありません。しかし、作品を見なければ、分かるようになることもありません。

オークションは大きな勉強の場だった

私にとって特に大きかったのは、海外のオークションで実際の作品を大量に見られたことでした。2000年代以降、香港、ニューヨーク、ロンドン、パリなどのオークションを回り、サザビーズ、クリスティーズ、ボナムズなどの下見で、一点ずつ作品を手に取って見ていました。一つの都市だけでも各社を合わせれば膨大な数になります。多い時期には、年間一万点をはるかに超える作品を実際に見ていたと思います。

カタログを持って一日中下見をし、気になったことを書き込む。陶磁器だけでなく、中国美術のさまざまな分野を見る。これを長年繰り返したことは、私の中の作品を見る土台を作るうえで非常に大きかったと思います。

サザビーズに入ってからは、世界各地のスペシャリストと一緒に仕事をする機会にも恵まれました。時間が空けば同僚と美術館へ行き、一つの作品を前にして、「ここが魅力的だ」「ここはこういう作り方をしている」と話すこともよくありました。専門家になったら勉強が終わるわけではありません。むしろ、専門になればなるほど、知らないことがあることに気づきます。

私はまず、作品全体を見る

では、実際に私自身が一つの作品を前にしたとき、どう見ているのか。たとえば中国陶磁であれば、宋磁なら釉薬やプロポーション、明清の作品なら絵付けや釉薬と胎土の関係など、確認するところはもちろんあります。しかし私は、高台、胎土、釉薬というように、決められた順番で一つずつチェックしているわけではありません。

まず全体を見ます。そして手に取ります。多くの場合、その比較的短い時間の中で、作品についての一つの印象ができています。

これを「カン」と呼ぶと少し違います。これまでに見てきた作品、写真として残した資料、文献、発掘資料、研究者や他のスペシャリストとの会話。そうしたものが自分の中に蓄積されていて、目の前の作品と非常に短い時間で比較されているのだと思います。

そのとき、ときどき「あれ?」と思うことがあります。

「あれ?」から検証が始まる

何かが自分の知っているものと違う。その違和感がどこから来ているのかを考えます。釉薬なのか、姿なのか、絵付なのか、作りなのか。そこで初めて、気になった部分をより細かく見ていきます。

自分の記憶だけでは分からなければ、過去に撮影した資料を確認します。それでも分からなければ文献を調べる。必要であれば研究者や他の専門家にも聞く。そうして調べていくと、「こういう作例も存在するのか」と初めて知ることもあります。

ここで大切なのは、自分が見たことがないからといって、その作品が間違っているとは限らないということです。中国陶磁は歴史も長く、地域も広い。新しい発掘資料によって、これまで考えられていた年代や生産地についての理解が変わることもあります。専門家であっても、自分が学んできた知識を絶対的なものだと考えることは危険です。

自分の知識に溺れない

知識が増えることには、別の危険もあります。たとえば来歴です。著名な旧蔵者がいる、有名な業者が扱った、立派な箱に入っている。そうした情報はもちろん重要ですし、作品を考えるうえで大きな手掛かりになることもあります。しかし、そうした情報を先に知ることで、「これだけ立派な来歴なのだから、良い作品に違いない」と判断が引っ張られてしまうことがあります。

だから私は、まず作品そのものを見ることが大切だと思っています。箱を買うわけではありません。見るべきものは、まず作品です。

そのうえで来歴や箱、過去の記録などを重ね、作品との間に整合性があるかを考える。来歴が作品を正当化するのではなく、作品と来歴の両方を冷静に見なければなりません。

また、国によっても専門家が見慣れている作品には違いがあります。日本で歴史的に好まれてきたもの、イギリスで好まれてきたもの、フランスで好まれてきたものは必ずしも同じではありません。そのため、自分がこれまであまり見てこなかったタイプの作品を、単に「違う」と否定してしまう危険もあります。

間違ったものを正しいと言うことはもちろん避けなければなりません。しかし同じように、正しいものを、自分が知らないという理由だけで間違っていると判断してしまうことも、専門家として非常に恐ろしいことです。だからこそ、分からないものほど調べる必要があります。

本物であることは、出発点

古美術商として、真贋については常に非常に慎重でなければなりません。私自身、自分のできる範囲で、本物だと判断できるもの以外は扱わないよう努めています。これは仕事をするうえでの大前提です。

しかし、本物であればそれだけで良い作品なのかというと、もちろんそうではありません。本物であることを確認した、その先にもう一つの判断があります。その作品に魅力があるか、ということです。

すべてが完璧である必要はないと思っています。釉薬に非常に美しい表情があるかもしれない。姿がとても優雅かもしれない。絵付けに強く惹かれるところがあるかもしれない。どこかに自分の心を動かすものがあるかどうか。それは私が作品を扱ううえで、とても重要なことです。古いというだけでは十分ではありません。

「古美術商」という文字の通り、古くて美しいものを扱うのが私の仕事です。

作品を見ることに、魔法はない

私は「目利き」という言葉をあまり使いたくありません。作品を一瞬で見抜く特殊な能力が、一部の人だけに備わっているように聞こえるからです。もちろん、人によって感覚の鋭さに違いはあるでしょう。スポーツや音楽と同じように、作品を見ることにも、生まれ持った感覚のようなものがあるのかもしれません。しかし、それは測ることもできませんし、仕事としてそれだけに頼ることもできません。

自分でできることは、良い作品を見て、数多くの作品を見て、調べ、比較し、自分の中のデータベースを少しずつ厚くしていくことです。そして、新しい情報が出てくれば、それまでの自分の知識も検証し直す。その繰り返しです。

だから、作品を見る力は専門家だけに許されたものでもないと思っています。お客様と作品について話していると、こちらがハッとさせられるようなことを言われることがあります。専門的な知識や言葉を持っていなくても、作品の美しさや、そこにある何かを感じ取っている。それをプロだけが分かっていると考えるのは、少しおこがましいことだと思います。

私たちが長い時間をかけて身につけているのは、美しさを感じる特別な能力というよりも、目の前で感じたことを、これまで見てきた膨大な作品や知識と比較し、検証し、必要であれば言葉にするための土台なのかもしれません。

作品を見ることに、魔法はありません。ただ、良い作品を見て、考え、調べ、また見る。その地道な積み重ねによって、それまで見えなかったものが少しずつ見えるようになる。私は、それが作品を見るということなのだと思っています。

―平野龍一