中国玉石とは
中国において玉(ぎょく)は、単なる鉱物としてではなく、古来より徳性を宿す特別な存在として扱われてきました。現存最古の字書『説文解字』には、玉を「石の美にして五徳あるもの」とし、仁・義・智・勇・潔の五つの徳を体現するものと記されています。新石器時代に始まったその歴史は、途切れることなく現代にまで続いています。
軟玉と硬玉
中国の玉は、大きく軟玉と硬玉の二種に分けられます。軟玉(ネフライト)は角閃石の一種で、新石器時代から中国国内で採掘され、柔らかな黄緑色を帯びた半透明の玉質を特徴とします。一方、硬玉(ジェイダイト、ヒスイ輝石)は十八世紀、清朝の時代にミャンマーから輸入されるようになったもので、緑・淡緑・白色を呈し、磨くことで美しい光沢を放ちます。なお、ここでいう古玉とは、主に新石器時代から漢代にかけて作られた玉石を指します。
玉の産地
良質な玉の産地として知られるのが、新疆ウイグル自治区南西部のホータン(和田)です。崑崙山脈の密爾岱山や南山、なかでも玉龍哈什河から産出する玉は特に良質とされてきました。殷墟から出土した玉もホータン産と推察されていますが、正確な採掘地は今なお特定されていません。現在もホータンでは軟玉の採掘が続けられています。
時代による変遷
紀元前六千年から四千年頃の新石器時代に現れた初期の玉器は比較的小型で、文様は施されていませんでした。続く紅山文化・良渚文化の時代になると、器形は複雑かつ大型化し、多彩な文様が表現されるようになります。金属工具を持たない時代にこれほど高度な加工技術が確立された背景には、権力者の出現による社会の階層化があったと考えられています。殷・周時代に入ると青銅器の使用により文様の技法が陽刻から陰刻へと移行し、鳥や牛、兎といった具象的な意匠が増える一方、玉器そのものは小型化していきました。漢代には玉が黄金以上の価値を持つとされ、玉衣・含玉(蝉)・握玉(豚)など、死後に玉を身にまとわせることで魂が抜けるのを防ぐという信仰のもと、数多くの装身具や器物が作られました。南北朝以降は政情不安により玉石の製作は衰退し、良質な玉の入手も困難になります。以後、明・清の時代に白玉が用いられるようになるまで、玉石による作品は目立って少なくなりました。
「和氏の璧」の逸話
戦国時代、趙の恵文王が所有していた名玉「和氏の璧」をめぐる逸話も知られています。秦の昭襄王がこの璧と十五の城との交換を持ちかけ、趙の使者・藺相如が秦都咸陽へと赴きますが、昭襄王が城を譲る意思がないと見るや、璧を取り返し、自らの命と共に打ち砕こうとします。その気迫に昭襄王は璧と藺相如を解放し、璧は無事に趙へと戻りました。藺相如が「城を得られなければ、この璧を完うして戻ります」と述べたことから、「完璧」という言葉の語源になったとされています。和氏の璧はその後『韓非子』『史記』『十八史略』などにも登場しますが、現在は所在不明となっています。
日本国内における玉石のコレクションは、青銅器や陶磁器に比べて限定的で、収蔵先は以下のように限られています。
国内
- 東京国立博物館
- 出光美術館
- 黒川古文化研究所
海外
- 大英博物館(ロンドン)
- ギメ美術館(パリ)
- メトロポリタン美術館(ニューヨーク)
- シカゴ美術館
- フォッグ美術館(ケンブリッジ)
- フリーア・サックラー・ギャラリー(ワシントンD.C.)
中文
- 『故宮古玉圖録』国立故宮博物院、1988年
英文
- Jade, Berthold Laufer, 1912
- Jades Archaïques de Chine appartenant à C.T.Loo, Paul Pelliot, 1925
- Archaic Chinese Jade, Laufer, 1927
- Carved Jade of Ancient China, Alfred Salmony, 1937
- Chinese Archaic Jades in the British Museum, Soame Jenyns, 1952
- Chinese Archaic Jades, C.T.Loo, 1950
- Ancient Chinese Jade from the Grenville L. Winthrop Collection, Max Loehr, 1975
- Chinese Jade from the Neolithic to the Qing, Jessica Rawson, 1995
和文
- 『支那古玉図録』梅原末治、桑名文星堂、1955年
- 『殷周青銅器と玉』水野清一、日本経済新聞社、1968年
- 『中国古玉の研究』林巳奈夫、吉川弘文館、1991年
- 『中国古玉器総説』林巳奈夫、吉川弘文館、1999年
