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平野古陶軒代表・平野龍一による寄稿・インタビューをまとめたアーカイブです。古美術との向き合い方から、オークションの現場観戦記、日本における中国陶磁コレクションの歴史まで、7本の文章を掲載しています。
古美術を好きになるはじめかた
スペシャリストが伝授! 古美術を好きになるはじめかた
平野古陶軒の三代目として京橋で店を営む平野龍一は、サザビーズジャパンで代表取締役を務めるなど様々な経験を重ね、現代美術にも造詣が深い。古美術に興味はあるけれども、難しそう。そんな読者に向けて、「古美術のスペシャリスト」である平野に入門の奥義を伺った。
古美術を好きになる! 4箇条
- 1まずはインスタグラムでお店をチェック
- 2信頼できる古美術選びの味方(古美術商)を見つける
- 3選ぶポイントは価格ではなく「普遍的な美」
- 4古美術を自由に飾って、使おう
古美術のスタートはインスタグラムからでOK
そもそも、古美術店って入りにくいですよね。
私だっていまだに入りにくいです(笑)。でも今は便利な世の中なので、いきなりそのような勇気を奮う必要はありません。一方向から気軽に始めてみましょう。古美術の入門としてまず私がおすすめするのは、インスタグラムです。検索すれば、たくさんの投稿が出てきます。その中から自分が好きだなと思える古美術品を扱う店舗を見つけてください。
ここで注意してほしいのが、写真です。センスが良かったり、世界観を作り上げたりしているようなところは努力をしている店の証拠。写真がいい加減なところは仕事も一生懸命やっていないのではないでしょうか。たとえ写真の撮り方が上手くなかったとしてもたくさんの角度から撮った写真を投稿しているようなところは、それなりに勉強もしているし、仕事も頑張ってやっている傾向があるように思います。インスタを利用するような、新しいテクノロジーに挑戦する店は一見さんでも受け入れてくれるはずですので、その目安にもなりますね。
気に入った店が見つかったら、店舗で実際に品物を見てみましょう。少し面倒ですが、できれば事前に一度電話すると対応が全然違います。その時に好みと予算を伝えましょう。ちゃんとした店なら、どういった品物を見せようか考えて用意してくれます。もし在庫がなければほかの店を紹介してくれるという店もありますよ。
店内が整っていてきれいかというのも、普段お客さんを受け入れ慣れているかが分かるので重要です。店に入ると買わなければならないとプレッシャーを感じる方が多いですが、古美術商は売れないのに慣れてますから断っても大丈夫。逆に売れたらびっくりしちゃう(笑)。
もっと気軽に古美術に触れられる場として、アートフェアや骨董市もおすすめです。例えばアートフェア東京なら現代美術も一緒に見られますし、選ばれた店が並ぶので安心です。若いお客さんが多いから敷居も低いですし。骨董市は比較的低価格の品物が並んでいますのでより利用しやすいですが、真贋が定かではない場合もあります。しかしたくさんのジャンルを一度に見られるので、自分の好みを見定める良い機会になるでしょう。
信頼できる店を見極めるには?
まずは店の主人と話してみましょう。人柄が良いか、自分と相性がいいかどうか確認してください。そして大事なのは、深い知識を持っているかです。それは店の大小や年齢とは関係しません。若い店主の場合は、一緒に成長していく楽しさもありますよね。
信頼できる店を見つけたとしても、贋物をつかんでしまうなど、やっぱり失敗するのが心配です。
古美術の世界では「失敗して勉強する」という言葉があります。昔はそれでも良かったのですが、様々な情報が行き交う現代では出来るだけ避けるべきだと思います。万が一失敗したときのダメージを減らすには、正しいアドバイスがもらえると判断した美術商に知識を提供してもらい、最終的に自分の判断で決めるのが一番です。
将来値段が上がるかどうかを気にするのも見る目を曇らせる大きな要因です。将来の値段の上下なんて、プロであったとしても正確には分からない。その時の需要と供給で高くなっているだけですので、時代によって金額が変化するのです。例えば瀬戸肩衝茶入は豊臣秀吉の時代は功労者に贈られるなど時代によって大きく変動しています。ならば、自己で判断するべき。その基準は「美しいな」と思えるかどうかです。
時代を越える「普遍的な美」に価値がある
古美術の世界では、絶対的な価値判断は数字ではないんです。着目するべきなのは、その品に時代を経て評価される「普遍的な美」が内包されているかどうかです。わかりやすく言うと、いつか古美術がよく分からない人の手に渡ったとしても「なんか良くない?」と気づいてもらえる、そういう感覚を覚えさせるものです。
その普遍的な美を見出すアンテナを磨くためにはどうしたら良いですか。
「良いものを見ること」に尽きます。例えば博物館や美術館の展示に行って、「美しいな」「いいな」と思う経験を重ねてください。それが美を感じる感覚を養います。そうするうちに、特に自分が美を感じるのはわびさびみたいなものか、華やかで完全な美を備えた官窯磁器のようなものかというのが分かってきます。
あとは書店に行って、古美術が趣味の人が書いているようなできるだけやさしい本を読んでください。いきなり専門書を読んだら挫折しちゃいますから。語学を始めた場合、いきなり論文は読まないでしょう。ドラマや絵本から入りますよね。それと同じです。
調べて知識を蓄積したり会話したり、様々な過程を時間をかけて楽しむ。古美術の醍醐味はその過程に含まれています。いろいろな疑問を古美術店で話してみるとさらに知識が深まります。
そして重要なのは「購入する」ということ。陶器が高いなと思ったらそれよりも手頃な江戸硝子でもいいんです。古美術を購入するということは、次の世代に繫ぐ権利をお金を出して得るという行為になりますが、どんな安いものであろうと、お金を払うと真剣さが生まれますから買った品物がどういうものか一生懸命に調べますよね。それが古美術に理解を深める近道になります。
ルールは抜き! 古美術との暮らしで人生を豊かに
買ったあとの楽しみ方を教えて下さい。
そもそも皆さん扱い方を気にされますが、壊さないように気をつけるぐらいで気楽に構えてください。見る角度がどうとか難しいことを言う人もいますが、それは作り手が考えること。鑑賞者はそれを見て楽しくなったり心地よくなったりすれば良いだけです。まずは「こうしなければいけない」というルールを取り払ってしまいましょう。
楽しむことの極意は、古美術を自分の近くに置くこと。自分で選んだ良いものを使うというのは人の心を楽しく豊かにするし、日々を輝かせるものです。
私が普段使っているテーブルは中国戦国時代の銅鼓ですし、李朝の茶碗を飯茶碗として使っています。お寿司屋さんにお気に入りのぐい呑みを持って行って日本酒を楽しんでいますが、料理人は器にこだわっている方が多いので話も盛り上がります。フレンチにデカンタとオールドバカラのグラスを持って行ってワインを楽しむのもひとつのアイディアですし。
同じ趣味の人達とお互いにコレクションとお酒を持ち寄っても楽しいです。センスの世界で、決して金額が高ければ良いものでもないというのが古美術の面白いところ。お金をかけられない人もそうでない人も平等に、特別な時間を共有することができるのです。
器ひとつで世界が広がりますね。
古美術を好きになっていただけたら、ぜひコレクションに挑戦してほしいです。5点ぐらい集まってくればその人の個性が出てきます。高いものを買わなくても、長期間続けるというのは重要かもしれません。一年に一点でもいい。それが10年続けばひとつの形になってくるでしょう。
余談になりますが、私は趣味でトライアスロンをしています。そこでは年代や価値観の違う人たちと出会えて、普段身を置く古美術の世界とは違う視点があることに気づかせてくれます。それはとても自分を豊かにするし、仕事のエネルギーにもなるわけです。
ものを持つことや知識を蓄積することで、人生に厚みが生まれます。ぜひ自分のスタイルで自由に楽しんでくださいね。
(8月30日・平野古陶軒にて)
STRAYMインタビュー
古美術商の平野龍一が語る、作品が本物となるまでの"時間"
東洋古美術を扱う平野古陶軒(東京・京橋)の3代目であり、かつてはサザビーズジャパンで代表取締役を勤めた経験も持つ平野龍一氏。生まれた頃から美術品に囲まれた家に暮らし、現在は、高額な古美術品を研究し、国内外の富裕層と取引をしている平野氏に「アートがある暮らしの豊かさ」について話を聞いた。インタビューを通して、NFTのような形を持たない作品と古美術との意外な共通点が浮かび上がってきた。(Interviewer:RYOHEI NAKAJIMA)
まず、3代目として現在代表を務められている平野古陶軒についてお聞かせください。
平野龍一1936年の2月26日、まさに2.26事件のその日に、大阪で創業しました。東洋古美術商として祖父が始めたのですが、関東では事件が起きていた初日から2名のお客様が来店してすべて売れたそうです。幼い頃から美術にどっぷり浸かっていて、家に絵が飾ってあったり古美術があるのも当たり前でしたし、大人になったら家業を継ぐものだと思って育ちました。美術の知識を蓄えることは小学生ぐらいから意識していましたし、経済の視点も持つ必要があると思ったので大学では経済を専攻しました。
大学卒業後には、画廊に就職されます。1994年なので、ちょうどバブルの崩壊した直後といった時期でしょうか。
平野龍一父も同じなんですが、美術商はまず修行に出るわけですよ。銀行に就職して勉強してから家業を継ぐとか、他の業種と一緒で、家業と同業種の東洋美術を扱うところにはいけないから、私も最初は彌生画廊という近代絵画をおもに扱う画廊に入社させてもらいました。本当にちょうどバブルが崩れた瞬間ぐらいの入社だったので、10年ぐらいは企業からの美術作品の放出があって、かなり良質なコレクションを扱うことができた。それこそ、平山郁夫さんや高山辰雄さんといった大御所の先生と直接話させていただく機会もあって、すごくいい勉強になりましたね。他にも、梅原龍三郎、香月泰男、中川一政といった錚々たる日本の近代画家の先生方の作品に触れたほか、西洋もルノワールやモネ、ゴッホといった印象派、後期印象派を扱う機会もありました。
彌生画廊には何年くらい勤務されたのでしょうか。
平野龍一13年です。初めは5年ぐらいかなと思っていたけど、5年では何もわからない。10年ぐらい経つと美術商の仕事が深く見えてきて、それで13年働いたあと、平野古陶軒を父が一度閉じていたので再興するんですよ。京橋1丁目に店を構えて、人も雇いました。だけど、1年目にベアー・スターンズが飛んで、2年目にリーマンショックが起きて、4年目か5年目に東日本大震災ですから、きつかった。ただ、私は専門を中国古美術に絞ろうと考えてずっと勉強していたので、まさにその時期は中国古美術の価値が上がるところで、どうにか軌道に乗せて経営することはできました。
ちょうどそのタイミングで、サザビーズから声がかかったんですね。
平野龍一このときの一番のモチベーションは、震災でしたね。日本は地獄のような状況だったから、日本の力を海外で見せて、暗い状況の日本を背負って立とうという気持ちがあった。オファーされたのが、中国美術のシニアスペシャリストというポジションだったのですが、中国美術のスペシャリストが何人かいて、シニアとなるととさらに少数の世界で5名ぐらい。それだけ重要なポジションを日本人に任せるなんてそれまであり得なかったことだし、自分がプライスリーダーになり、世界で一番の美術品が見られることは何より重要でした。
勤務地は香港ですか?
平野龍一香港に雇われるかたちで、ベースは日本です。オークションをやっているのは、ニューヨーク、ロンドン、パリ、香港で、その4箇所すべてに対してサポートをするのが私の役目だったので、その4都市はもちろん、アメリカの田舎だったり、ヨーロッパの別の都市だったり、作品があるというところには見に行って、査定するという仕事を続けていました。即座に査定するためには知識が必要だから勉強を続けていましたし、多いときには月に13回国際線に乗って移動していたから、体力が本当に必要でした。でも、中国の古美術の価値が上がっている時期だったので、自分が世界を飛び回ることで日本のプレゼンスをアピールすることができたと思うし、日本の美術業界と海外の美術業界の距離を少しでも縮めて、パイプを作ることはできたんじゃないかと思っています。
各地の美術館とのつながりもできそうですよね。
平野龍一そう、すごくラッキーでした。大英博物館とか、ヴィクトリー&アルバートとか、メトロポリタン美術館とかのキュレーターとも普通に話せたし、倉庫も見せてもらえた。向こうのキュレーターから、古美術品が見つかると「これってどう思う?」って時代や価値について聞かれることもあるくらいで、世界中に学ぶものも多かったです。
サザビーズに7年勤め、最後の2年は日本法人の代表取締役を務められました。退職のきっかけをお聞かせください。
平野龍一サザビーズでやりたいこともある程度できて、やはり平野古陶軒に戻り、お客さんと直接話して、作品を前にして対話するような仕事にそろそろ戻ろうか、という気持ちになったのが、7年ぐらい経ってからだったんです。
では、平野さんがご自身で作品を購入するようになったのは、何歳ぐらいの頃からですか?
平野龍一作品を買い始めたのは23歳ぐらいでしたね。就職した頃です。給料をもらって生活しながら買える範囲で、無名な作家のまだ金額の安い作品を買っていました。自分の予算と、あとは住んでいる部屋のスタイルに合わせて、コンテンポラリーの作品を買っていましたね。やっぱり美術作品を買うと、自分で選んで集めたものからは自分のテイストが出てくるから、それを飾った空間は自分にとって心地よい。作品を買ったら、部屋のどこに飾るか、どうやって額装しようか、と考えるのは当時からすごく楽しかったです。あくまでも自分のためだから、いくらで売れるようになるかとか、そう考えたことは一度もなかった。完全に自分のためですね。
作品や作家、歴史について学ぶことと、実際にアートをプライベートで楽しむことが若い頃から結びついていたんですね。
平野龍一とはいっても、本当に好きになったのは30歳ぐらいになってからかな、と思います。子供の頃から美術が当たり前のように存在していたけど、自分で作品をかなり購入するようになって、美術のことを哲学的にも考えるようになったし、それをどうやって仕事と融合させるかということを本気で考えるようになったというのは30歳過ぎてからですね。多分、知識が溜まっていって、そうなったんだと思う。彌生画廊の主人が、「絵は簡単に語りかけてくれない」と言うんです。ある程度、絵のポジションと自分が近くなると、ようやくちょこっとだけ話しかけてくれる、と。中国美術も日本美術もアフリカ美術も好きになって、あとはコンテンポラリーアートにもいろいろ興味が出てきて勉強するようになると、影響関係が見えたりする。そういうプロセスを経て本当に好きになっていったんですね。
作品を購入することで、作家の活動をサポートするような意識もありますか。
平野龍一そんな、僕がサポートするなんておこがましいですよ。作家は勝手に育っていくし、うちで藤田勇哉くんという作家の作品を15年ぐらいずっと扱っているんだけど、彼に関しては少し手伝っていると言えるのかな。必ず彼が最後まで絵を描き続けるようにしたいと思っているので、作品は全部買い取っているけど、10点ぐらい買ったぐらいでサポートなんていうのはなんだかおこがましい気がして。作家たちは命を賭けて描いているわけだから。自分が感じたことや学んだことを、作家自身が自分の中を通して指先から出したものが絵画だし、文字に起こしたら文学だし、楽器を通したら音楽、という感じで表現者が体を張って命を賭けているのはみんな同じですよ。そういうものに触れると自然と震えるものがあるし、それが世の中にどういう風に役に立つのか具体的には証明されていないけど、確実に役には立っていますから。
幼い頃から美術に囲まれて、仕事でも多様な作品に触れ、作家ともコミュニケーションをとってきた平野さんの言葉だから刺さるものがあります。
平野龍一美術は絶対に必要なものだとか、置いておけば空間がすべて変わるとか、そんな大袈裟なものではなくてもっと自然なものです。あまりにもみんながアートを特別視しすぎていないかなと思う。なくても生きていける人の方がずっと多いくらいだし。でも、例えば作品が家にあったら、それをずっと見ているわけではないけど、ちらっと眺めたり、古美術だったらちらっと触れてみたり、そういう瞬間というのは他に代えられるものがない。自分の中で密やかに何かが育っていくというか、刺激を受けていくというか、自分で選んだ絵が飾ってある部屋で暮らしている人と絵のない部屋に暮らしている人とでは、一見大きく変わらないかもしれないけど、でも何かが違うはず。それぐらい密やかなものなんですよ。
平野古陶軒としては、そのように作品のある暮らしの豊かさを説かれているんですね。
平野龍一ひとつ大切にしているのは、どこかで作品を仕入れたとして、絶対にすぐには売らない。絵だったら必ず家に飾るし、古美術だったら例えばテレビの横にスペースがあって、そこにある程度の期間置いてみる。チラッと見たり、その作品がある空間で暮らしてみて、ほんの少しでも自分が作品に近づけたと感じたら、ここにある文献で調べて、理解した上で売るようにしています。だから売ろうと思うまでに何年もかかる作品もありますし、どのように楽しんでもらいたいかをきちんと伝えたいから、そのやり方がいいと思っています。
平野古陶軒では高額の美術品しか扱っていませんから、富裕層とたしかなコミュニケーションをとるために、ご自身が作品をきちんと見極めて理解することが大前提にあるんですね。
平野龍一だから私は競合を同業のアートディーラーだとは思っていなくて、高級車や時計のようなラグジュアリーブランドだったり、ヴィンテージのワインだったり、そういうものと市場を争って、勝っていかないといけないと思っています。パテックの時計をつけるよりも、美術品を1点家に飾る方が豊かだよとアピールしないといけない。
今お話を伺っていて、まさにそう思いました。浅はかな考えかもしれませんが、誰かがお金を持ち始めると急に高いお酒を飲んだり、綺麗な女性と遊んだりして、その後そこでモテたくなっていい時計を買ったりいい車に乗ったりするんだけど、その先にある美術品って、なかなか手の届かない世界というか理解できないから手が伸びないんですよ。でも、家に1枚絵を飾ろうかとなったときに、またストーリーが次につながるんですよね。競合はラグジュアリーブランドだと。まさにその通りだと思いました。
平野龍一世界の美術市場は8兆円だとか言われているけど、競合を美術商だとしたらその中での奪い合いですよね。でも、ブランド物とかを入れたらマーケットはそんな規模じゃないから、そこに食い込んでいかないと自分は燃えてこない。ビジネスとしてうまくやらないと美術商としてはやっぱり失格で、儲けるのも大事。でもそこで、どのように哲学を守っていくかということなんですよ。
美術作品も市場の形が変化を続けていて、ここ最近では、NFTへの注目が高まり、作品の価格も高騰しています。作品を購入し、モノとして一緒に暮らすことの豊かさを大切にする平野さんの目からご覧になって、NFTの価値をどのようにお考えですか。
平野龍一前に現代アーティストの宮島達男さんが、講演で「現代美術は未来への実験室である」と言っていたんですね。本当にそうだと思う。新しい技術が出てきたときに、アートをやる人間だったらそれで何かをやってみたいと思うのは当然ですよ。そういうものをベースにした新しいアートが生まれるのは当たり前で、挑戦する人は応援したい。でも、全部が本物であるかというと、それはまた別。古美術の場合は、歴史を勉強し、知識と経験をもとに本物か偽物かを見極めるわけだけど、同じように現代美術にも本物も偽物もいっぱいあって、NFTにも必ず本物が入ってくると思う。ただ、そのフィルターがかかるのはやっぱり時代が経ってからで、そういう意味でも現代美術と古美術は決して乖離しているものではありません。
NFT作品は、データを改ざんできないだけじゃなくて、みんなで監視して、そのデータに間違いが起こらないように永遠に残しましょう、というものでもあります。だから、古美術が歴史をたどり獲得した強度は、未来に残っていくNFT作品が持っているだろう強度と共通するんだろうと、お話を伺いながら感じました。
平野龍一自分が結構大切にしている「古人の跡を求めず、古人の求めたるところを求めよ(先人たちの異形の形骸を追い求めるのではなく、先人たちが理想として思い描いたものを求めなさい、の意)」という松尾芭蕉が残した言葉があるんですね。前に市川亀治郎さんが、今の猿之助さんなんだけど、彼が店舗に取材にいらしてくれて、インタビュー記事を日経に書いてくれたことがあるんです。その時に、私の祖父は、本当に美しいものは古いものでも新しく見えるものだと言っていた、と話したんです。そうしたら記事で猿之助さんは、「伝統を守るということは、古きをただ闇雲に遵守することではなく、古きものの中に永久不変の輝きを見つけ出すことではないのだろうか。だとしたら、この命を賭けて、この輝きを伝えいきたい」と書いていたんです。まさにその通りで、今まで自分が持っていた常識みたいなものよりも、もっと根幹にある、これが輝きなんだと思えるものを大事にしたうえで、形を今の時代に合わせていった方がいいと思う。STRAYMはそういう意識を持って展開を目指すビジネスなんだと感じるから、共同購入という形で一般の人がアートに触れるチャンスを提供したり、その根幹で考える輝きの部分を大切にしてほしいです。そういう哲学で続ければ、必ず何かが残るはずですから。
伊勢コレクション:中国陶磁の精華 ― 名品が映す新たな潮流
伊勢信彦氏は養鶏業を基盤とした卵ビジネスで大きな成功を収めた実業家である。中国陶磁に関しては1990年ごろから本格的に収集に取り組み、とりわけ日本伝来の優品を選んで集めていった。日本ではさることながら海外に出かけた際にも、1日に何件もの美術館を精力的に巡り、実物に触れて審美眼を養うことを欠かそうとはしなかった。その美術品に対する真摯な姿勢が、30年に及ぶ収集活動を支え、体系的かつ魅力的なコレクションの形成へつながっていった。国際的な交流にも積極的で、香港(Min Chiu Society)や台湾(Ching Wan Society)といった収集家グループと親しく交わり、自宅に招いて作品を披露するなど、文化を媒介とした友情と理解を育んだ。自らのコレクションを開かれた形で共有する姿勢は、日本においては珍しく、大阪市立東洋陶磁美術館やパリ・ギメ東洋美術館の展覧会を通じて、一般公開もされ、多くの人々に中国陶磁の魅力を伝えていった。その30年にも及ぶ収集の成果が、2025年9月9日にサザビーズにて競売にかけられることとなった。
このオークションが開催されるに至って、過去最も長かった13日間のプレビュー(下見)が行われた。実際に手にとって姿形や釉調、全体の佇まいや作品の状態を細かく確認していく。この作業が実に大切であり、自らの眼でひとつひとつ確かめにいく。その情報を基に、現在の市場価格を当てはめて、設定されたエスティメイトと比較していくのだ。
オークション会場は以前から使われていた香港コンベンションセンターから、新しく移転したセントラルのサザビーズ・メゾンにて行われた。オークショニアが立つ競台の左手にはずらっと電話ブースが並び、各国からのスタッフが顧客からの電話ビッドの対応に備えている。開催の30分前にドアが開き、開始時間の10時にはほぼ満席の状況で会場は熱気を帯びている。日本からは数名ディーラーが会場に控えており、英国からはひとりだけ、香港や台湾などよく見るディーラーも少なめであり、寧ろ本土からのコレクターが多い印象であった。
はじめのオークショニアはシーシー、ゆっくりと英語と中国語で規約を読み上げると、スクリーンにLOT1の青磁袴腰香炉が映し出され、電話もつながった状態で、50万ドルの声が発せられる。オークションは始まった。LOT1、LOT2とエスティメイトに少し届かないほどのハンマー、LOT3は不落札。やはり難しいセールとなるのかと頭をよぎりかけたのも束の間、LOT4以降はエスティメイトを大きく超え、また会場からも電話ビットも入札が途絶えることはなかった。
今回のイセコレクション、サザビーズはかなり挑戦的なエスティメイトを設定してきていた。現在の中国美術マーケットはコンテンポラリーなどと比べ比較的堅調ではあるものの、外部環境の影響もあって、一時期の勢いからは落ち着き、コレクターは作品を選択する時代に入っている。その中でこのエスティメイトは、市場価格というよりクリスティーズあるいはその他の競合とのコンペに勝つための設定であるように見受けられ、私にはかなり強くまた厳しい印象があった。それを裏付けるように、カタログには「作品はサザビーズによりGUARANTEE(保証)されている」との記載があった。この保証とはリザーブ価格(最低落札価格)でサザビーズが買い取ることであり、リザーブを下回って販売された場合は売主に差額を保証する仕組みである。通常の契約で用いられることはなく、今回のような大きくまとまったコレクションや著名な出品者で会社としても必ず獲得したい場合に用いられることがある。尚、リザーブ価格については公表されておらず、また契約の内容についての詳細はわからない。近年のオークション会社の経営は厳しい環境に置かれていることを考えると、かなり異例の措置で、相当に攻めたエスティメイトであった。
よって事情をある程度理解している者からすると、はじめからエスティメイト近辺で落札されること事態がかなりの驚きであり、LOT4以降から大きく伸びていく様子を見て、今日はなにが起こるのかと不安と期待が入り混じっていた。その後も好調な伸びを続けながら、多くの作品は落札されていき。中には日本からのビッドも。前半の注目であった南宋官窯輪花盤は約3億2000万円から始まり、中国本土の電話を中心に競り上がり、約10億6000万円で落札。宋磁の勢いは止まらず、かつて晩翠軒で知られた井上恒一氏が旧蔵していた南宋官窯米色青磁瓶は約4億7000万円。米色青磁はこれまで欧米や中国本土では評価が定まっていないとされていたが、これが大いに覆ることとなった。宋磁の後半で比較的エスティメイトが低いものも堅調にこなし、元明時代の青花磁器へ。このセクションが最も高額であり、また市場における評価も厳しい。金額が高いため活発な競りは少し落ち着きを見せるが、コンディションや来歴がよかったこともあり、強いエスティメイトの範囲内あるいは少し下で落札されていく。そして、今回最も注目された作品のひとつでもあるパレスボウル、明時代成化期の青花花唐草文碗であるが、このエスティメイトは約7億5000万円〜約15億円。これがエスティメイト下限を大きく下回る約5億4000万円のハンマー。
通常ではありえないほど低い価格であったが、オークショニアははっきりSOLD!(落札)と言い、パドル番号を読み上げていた。私の推測にしかすぎないが、恐らくこのあたりでサザビーズが保証していた全部の金額に到達したか、あるいはその金額が確実なものになったのではないだろうか。この後、オークション開催中に何度も不落札になった作品がリオープン(もう一度競りにかけられること)される。つまり保証は一点一点にされている訳ではなく、グローバルリザーブという特殊な契約がなされているため、全体の保証金額に到達すると、残りの作品はたとえ安い金額であっても売り切ることができる。永楽の堆朱鳳凰牡丹文器局もエスティメイト下限から、かなり離れた金額でも落札されている。
恐らくはネット経由でこのオークションを見ていると、多くの作品がエスティメイトを下回り、何度も不落札の作品が競りにかけられるなど、かなり厳しい状況あると受け取られていたのかもしれない。しかし、実際の会場の雰囲気は大きく異なっていた。作品のクオリティ、市場価格、状態など複合的に考えて、現場の空気を吸わないと、このオークションの本当の姿は見えてこない。
午前のセッションの最後、小さな文房具の類も全て高額で落札されていくと、予定を大幅に超えた14時30分となり、30分の休憩を挟んですぐに午後のセッションがはじまった。ここからは清朝陶磁が多く出品されている。清朝のものは文様構成や器形が似ているものが多いため、過去のオークション結果などから市場価格が算出しやすい。また近年、中国本土での関心度は以前より高くはない。そのような逆風の環境でもこの強いエスティメイトをよくこなしていった。伊勢氏がはじめに購入した中国陶磁とされる乾隆の茶葉末双耳壷は約9600万円とエスティメイト下限の2倍以上となり、雍正の黄釉輪花盤一対も約1億3600万円まで伸びている。その後の青銅器も一点を除いて、全て電話ビッドに落札されていった。
LOT5114は隋の褐釉貼花文瓶であったが、この後のオークションは唐や六朝、そして民窯のものが最後まで続くため、いつもであれば多くの中国系の顧客は会場を後にするはず。しかし、今回は誰も席を立つこともなく次のロットへと進行していった。このオークションにおいて最も特筆すべき部分はこの変化なのかもしれない。唐の三彩長頸瓶(約5500万円)、北魏の加彩官人俑(約6500万円)、唐の藍彩萬年壷(約3600万円)、そして唐の三彩螺形水丞(約1600万円)の競りは会場で見ていて、正直、我が目を疑った。作品の重要度や来歴は語るべくもないが、過去ここまでのレベルで中国本土から評価されることはなく、最近、俄に注目されるようになった隋白磁を追随するような動きは、全く予想することができなかった。北魏に関しては漢民族でもなく、また今回は最も難しいとされた人物俑である。常々その美しい姿を彼らから理解されないことに少し残念な思いがしていたが、ここまで評価されてしまうと却って恐ろしくもある。明清を中心に形成されてきた中国本土におけるマーケットも、ここに来て、多くのコレクターを輩出し、嘗ての欧米や日本が愛した六朝や唐、そしてより遡る時代にまで、作品の美しさを基準にして選んでいくようになったのかもしれない。
もうひとつの大きな変化として、長年、中国美術において大きなポジションを占めていたイギリスのディーラーが今回はほぼ参加していなかったこと。会場にいたのは若いサミュエル・マーチャントのみで、電話ビッドも入っている様子はない。2021年にニューヨークのJ.J.ラリーが引退してから、欧米の存在感は大きく失われ、その後ロンドンのロジャー・ケバーンやベン・ジャンセンといったスピンク出身者も相次いで引退。名門ブリューエットを継いだトニー・カーターも姿を見なくなった。唯一、最大手のジョセッペ・エスケナージの跡をダニエルが継いでいる。そして中国美術市場がより中国本土・香港・台湾といった中国文化圏中心となっていく状況の下、日本から気を吐いていたのが繭山龍泉堂であった。注目されている作品の多くの入札に参加し、彼らが知り尽くした伊勢コレクションの優品を競り落としていく姿は、実に見事であり、清々しくもあった。日本のコレクターによって長く守られてきた作品が、たとえ一部ではあっても、また里帰りすることになったのは、日本人として実に誇らしい。その他、会場にいた日本人ディーラーを含め電話ビットからも日本のプレゼンスはしっかり示されていた。10年前の2015年にロンドン・サザビーズで行われた「井上恒一コレクション」が彷彿とされる。
オークションは終盤に至っても堅調に落札し続け、エスティメイトの10倍近くも競られた安南赤絵瑞獣盤や炉鈞釉急須などのサプライズも含みながら、会場からの大きな拍手と共にイセコレクションは終了した。全体では182ロット中181ロットが落札され、総売上は約70億円にも及ぶ。
長きに渡って世界各地から獲得された名品の数々も、また多くのコレクターやディーラーの元へと新たに旅立っていった。川端康成や反町茂作、井上恒一らといった日本における名コレクターから引き継がれてきた至宝たち。それらの国外流出は文化的損失として由々しき問題であることに違いない。しかし一方で、新たなコレクターの出現なくして作品の存続は望めず、流通は必然の営みでもある。結局のところ、美術品は自らの安全と保存を保証してくれる保護者のもとへと引き寄せられていく運命を備えているのではなかろうか。今回のオークションの成功を通じて、中国美術の奥深い美に新たに心を寄せ、その魅力を愛で、自らの傍らに置いて静かに語り合うように楽しんでくださる方が現れることを願います。
スペシャリストという仕事 ― 古美術編 ―
オークション会社には少し変わった集団がいます。それはスペシャリストと呼ばれ、世界各地を旅しながら、作品を探し出し、お客様に的確なアドバイスをする役目を負っています。なかでも中国美術のスペシャリストはかなりの「オタク」集団です。
はじめに、スペシャリストを目指す多くの人は、大学院で特定の美術を専攻するか、サザビーズインスティテュートを卒業するなどして、インターンを経て、現場で経験を積みながらスペシャリストへと育っていきます。中には専門分野の博士号所有者が、美術館や研究機関から引き抜かれることもあります。そして私のように子供の頃から半ば強制的に古美術に触れ、九九より先に唐三彩を覚えてしまった者たちなどが、その中に混じっていくのです。学者肌であったり、野武士であったり、その人柄はさまざまですが、皆、特殊な感性の持ち主であることは間違いありません。
そんな彼らはオフィスと空港を往復しながら、多くの日々を飛行機とホテルで過ごし、作品を見ては、頭の中の引き出しを探りながら、オークションカタログに掲載される査定価格を決めていきます。皆さんはどのように査定価格が決められていくか不思議に感じられるでしょう。その実際は、やはり経験則で補われる部分が多いのです。1年間、各オークション会場を回っていると弊社だけでもおよそ4000点の作品を見る機会に恵まれます。中にはその特殊能力で過去10年の作品の落札額を記憶しているツワモノもいますが、多くのスペシャリストは基準となる作品の価格を自分の中で持っており、その作品との比較でエスティメイトをはじき出していきます。それには将来の市場展望や戦略的な価格設定なども、もちろん加味されます。
ただ相手は四千年の歴史からの宝物、その場では当然判断しきれないものも存在します。そのために最も活用されるのが書籍と、中国美術オークションが始まった1930年代から蓄積された膨大な資料です。過去に我々が扱った全ての作品が記録保存され、細かくメモ書きされたコメントも参照することができます。この地道な捜査の積み重ねが、思わぬ発見を生むことがあります。桐箱に書かれた小さな文字を解読し、古い入札記録から大正時代の持ち主が分かったり、青銅器に刻まれた金文の調査を進めるうちに19世紀のコレクターの収蔵が分かったときには涙モノです。「調べもの」、オフィスにいるときはほとんどがこれです。
また作品の購入に関しては、お客様のコレクションや嗜好に合わせた収集方針を理解し、適切なアドバイスを行うことは当然であります。専門的な知識に及ぶもののみならず、コンテンポラリーや印象派の収集家、あるいははじめて美術と触れる方に中国美術の遥かなる美しさを、熱意のあまり少々鬱陶しいほどにご説明し、最適な作品を選び出すことが我々の得意な仕事のひとつでもあるのです。ホワイトキューブに掛けられた「フランシス・ベーコン」のそばに、北魏石仏あるいは唐白磁壷を添えれば、空間の緊張感にきっと新たな息吹がもたらされるはずです。
飛んで、見て、調べる。これこそが私たちスペシャリストの仕事です。
アラスカ上空より 平野龍一
細川コレクション
頬当御門をくぐり抜けて、反り返った石垣を望むと、大きな銀杏の木が見えてくる。その奥に鎮座する天守閣こそが、500余年の歴史をくぐり抜けてきた細川の大城「熊本城」である。細川家は清和源氏の流れを汲み、足利尊氏と共に戦った頼有(1332-1391)を始祖として、戦国時代に名を馳せた藤孝(1534-1610)を初代とする。初代藤孝は戦国の世という過酷な時代を自らが授かった武と智を存分に発揮することで、数々の大功を重ね、最も厳しい環境を生き抜いて行った。しかしその傍ら、乱世にあっても風雅を愛でることを決して忘れず、歌道、茶道といった文芸を貴び、長子忠興と共に茶道の大成者とされる千利休の知己を得た。この家風は長い年月を重ねても薄まることはなく、細川の家の中に文武両道の精神は後世に至ってもより深く息づいていく。
永青文庫は細川家16代細川護立(1883-1970)によって1950年に設立される。永青の名は始祖頼有以後八代の菩提寺・京都建仁寺塔頭永源庵の「永」と、藤孝の居城青龍城の「青」の二文字を取って名付けられた。その収蔵品は、脈々と引き継がれてきた細川家伝来の品々と護立によって集められた東洋美術を中心に、国宝8点、重要文化財31点を含む8万余点の作品が収められる。
若い頃病弱であった護立は、江戸時代中期の禅僧である白隠の「夜船閑話」に触れることで、禅と禅画について興味持つようになった。これをきっかけとして芸術との関わりを深めていった護立は、同世代の絵描きたちとも積極的に交わるようになる。のちに時代のリーダーとなる横山大観や梅原龍三郎といった作家らが、新しい近代絵画を模索する姿を見て、彼らの未来へ惜しみない援助の手を差し伸べている。その一方で護立は国宝保存会会長や国立博物館顧問といった伝統的な芸術の保護においても強い指導力を発揮し、既成概念に捉われない幅広い視野と直感的な行動力を以って、長く日本の文化行政に貢献した。そして、5歳のころより漢籍に親しんでいた護立は、明治33年(1900)頃にはひとりで北京を訪れ、中国文化に対する憧れを一層強くして、その後の欧州旅行を機に収集への口火を切る。
細川コレクションにおける中国美術にはふたつの大きな哲学が込められている。そのひとつは時代や技法といった学究的要素に一切捉われることのない、護立の強い意志の力である。中国美術に累々と息づく純粋な、そして決して揺らぐことのない根幹的な美しさ。それをまるで射抜いて行くかのように作品をひとつひとつ獲得していった。永青文庫に収蔵されている三彩宝相華文三足盤(1926年、C.T.Loo購入)や乾隆・琺瑯彩西洋人物瓶、絵画における伏波神祀詩巻(黄庭堅)や漢汲黯伝(趙孟頫)には表面的な学術的関連性は見出せない。しかし、それらの中に息づく鼓動、生命感こそ正に中国美術の真諦である。漢籍に学び、中国美術に対する強い思いを背に、ユーモフォポルスをはじめとした欧米のコレクターを訪ね歩いた彼だからこそ、辿り着くことができる境地であったのかもしれない。片や繊細で儚く、清らかで美しい清朝陶磁及び工芸品の一群が見られる。彼らは常に寡黙であるが、極めて強い存在感を解き放つ。語り良い言葉に表すところの「文人趣味」であるが、どうやら一筋縄で行かない雰囲気をそこには纏っている。文房四宝をはじめ、単色磁、豆彩において、同手の作品と比べ、その美しさは群を抜いており、選び抜かれた珠玉の逸品であろう。恐らくは中国美術をその骨格から学んだものにしか理解することの出来ない、感性と理屈が織り成す世界がそこに存在する。
この細川コレクション全体に流れる神韻縹渺とした趣は、500年という歴史に磨かれた細川の審美眼と、文庫に今も並べられる多くの書物から得られた結論であろう。そして、そのコレクションの大半は目白の丘に「永青文庫」として収蔵されている。
宋磁の美
私は平野古陶軒3代目に生まれ、東洋美術を身近に見て育ちました。幼い頃から家業として美術を大切に思っていましたが、美術がいかに楽しいか、生きるために不可欠なものであるかに気付いたのは少し時間が経ってからです。世界中の美術館を観てまわり、実際に作品に触れることで、美術品の必然性を知り、作品の内奥を読み解くことが、自らの愉しみへと少しずつ変わっていきました。私にとって美術とはかけがえのないものであり、いつも自分のそばにある喜びは、心と暮らしを豊かにしてくれます。
私は、美の本質を見極めるという点では、宋磁ほど難しく、また面白いものはないと思います。釉色、文様、姿形のほんのわずかな違いが醸し出すある種の緊張感と、他のものとは比較しがたい端正で高潔な雰囲気をまとっており、そこには人を魅了させる普遍的な美があります。そして、宋磁をコレクションすることはもっとも難しいと言えるでしょう。評価が確立された分野とは違い、高価なものを集めることで魅力的なコレクションになるとは限りません。ひとつひとつ時間をかけ、選び抜いたコレクションからは、蒐集したコレクターの美に対する姿勢、生き方が伝わってきます。作品との出会いと別れを繰り返していくことで、自分だけの美のかたちが姿を表してくるのです。いかにコレクションを輝かせ、美しくできるかはその思いの強さと運ですが、そこにこそ本来の楽しみがあり、故に人の心を動かすのです。
今回ご覧いただく宋磁コレクションは、私がいま考えているひとつの美のかたちです。悠久の時を経て、品格と耽美を併せ持つ宋磁の世界をお伝えできましたら幸いです。
(2023年4月8日、サザビーズ香港「The Legacy of HIRANO KOTOKEN」オークション図録より)
美を求めて ― 日本における中国陶磁コレクションの成り立ち
日本において、鎌倉時代より伝世品として伝わる青磁や天目、そして出土品として多く見られる青白磁など、中国陶磁は茶道や仏具といった特定の用途の上で長年に渡り親しまれてきました。その後250年以上に及ぶ鎖国政策を敷いた江戸時代のち、大きな転換を迎えたのが明治維新です。この日本社会の大きな転換により、人々は新たな価値観のもと芸術文化を受け入れるかたちも変化していきました。所謂、茶道に使用する「御道具」としての陶磁器から、作品そのものの美しさを愛でる鑑賞美術という発想が生まれることにより、美術としての中国陶磁を蒐集する幕が開けていきます。
中国青銅器及び銅鏡等447点を収蔵する泉屋博古館をつくった住友春翠(1865-1926)は、銅鉱山経営で得た莫大な富を使って、1889年(明治32年)にはじめて「夔文筒形卣」を山中商会から購入しています。当初は煎茶に使う道具として実用を目的としていましたが、その独特な姿形の迫力と文様の美しさに触れるに従い、やがて美術品として蒐集を行うようになりました。1892年(明治35年)ころより山中商会、藤田弥助、雨竹堂らから積極的に購入するようになり、翌年にはコレクションを代表する「虎卣」と「夔神鼓」を手に入れています。また春翠は単に蒐集を目的にすることにとどまらず、中国古代の重要な文化財を学術的にも研究すべきと考え、当時一流の権威であった内藤湖南(1866-1934)、濱田耕作(1881-1938)、梅原末治(1893-1983)といった研究者たちに自らの蒐集品を調査させています。その研究成果としてまとめられたのが「泉屋清賞(明治44年)」です。これによって当時の欧米の蒐集家にも学術的な研究の必要性が広まり、春翠は蒐集家として世界に知られるようになりました。
大正時代に入ると、山中商会をはじめとして多くの古美術商が活躍するようになりました。すでに1894年(明治27年)にアメリカに渡った山中定次郎(1866-1936)は、ボストン、ニューヨークそしてロンドンに出店し、1912年(大正元年)には恭親王コレクションを購入し翌年競売を成功させています。日本では1923年(大正12年)より大阪美術倶楽部において「東洋古美術展」を開催。その後ほぼ毎年およそ20年に渡って続けられました。山中商会は名実ともに美術商として国内外にその名を轟かし、戦後に至るまでは世界でも中心的な存在として活躍します。神戸の港に山中の荷が着くときには、当時の古美術商がこぞって出かけ、その中から品物をわけてもらう逸話が数多く残っています。山中は多くの古美術商の供給元ともなっていました。
この頃になると中国陶磁を従来の茶道具の延長線上としてではなく、鑑賞美術という新たな分野として捉えた古美術商も出現するようになります。浅野楳吉は1919年(大正13年)大阪平野町に開店。北京・上海と大阪を行き来しながら、金石を中心に商売をはじめ、後にメトロポリタン美術館に太和鍍金仏を納めています。また近年オークションで扱われた青銅虁鸞文方罍(MIN FANGLEI)も当初彼が扱っていました。1924年(大正24年)鶴翁(白鶴酒造7代目当主嘉納治兵衛)と出会ってからは、海外との取引を控えるようになり、中国銀器の白眉とも言える「鍍金狩猟文六花形銀杯」をはじめとして、数多くの優品を彼の元へと運びました。現在白鶴美術館が収蔵する鶴翁のコレクションは、前述の住友コレクションとはまた違った、大型で迫力のある青銅器が多く、鶴翁の豪放な性格を表しているようです。このころ多くの知識層は幼少期に四書五経に学び、漢詩を嗜んだことで、古代中国に深い敬愛の念を抱いていました。中国陶磁そのものの鑑賞を蒐集することは実に自然な流れだったのかもしれません。
東京では繭山松太郎が銀座にて繭山龍泉堂を1916年(大正5年)に開店します。現在に至るまで日本の多くのコレクターの蒐集を手伝い、繭山で取り扱った多くの作品を集める「龍泉集芳(1976年)」は多くの蒐集家の教科書として使われるほどです。また松太郎とともに働いた廣田松繁(不孤斎、1897-1973)も1924年(大正13年)西山保とともに壺中居を神田にて創業します。その後、長きに渡って中国陶磁の紹介に大きく寄与するとともに、「南宋官窯青磁琮形瓶」を含む496点の個人コレクションを東京国立博物館に寄贈しました。黎明期であった明治時代に比べ、大正から昭和初期にかけては、横河民輔(1864-1945)、岩崎彌之助(1851-1908)、根津嘉一郎(1860-1940)、梅澤彦太郎(1893-1969)といった多くの一流のコレクターが多く現れることによって、大小さまざまな個性をもつ古美術商が育っていきました。交通事情が悪い中、「北京通い」と称された何ヶ月もの旅をしながら、彼らは仕入れた品物をコレクターに届け続けます。
同じ頃、コレクターや研究者が中心となり、陶磁器研究を目的とした品陶会、彩壺会、東洋陶磁研究所、陶話会といったさまざまな学術系団体が設立されていきます。そして彼らが主催する展覧会や出版活動が行われていきます。1928年(昭和3年)に華族会館で催された「唐三彩陶展」は東京を中心とした多くの蒐集家より50点を集めます。その中心には細川護立がおり、彼自身17点を出品、北京帰りのC.T.LOOから購入した「唐三彩宝相華文三足盤」を出品するとともに、のちに刊行した展覧会図録「唐三彩図譜」の表紙としても使っています。1929年(昭和4年)には日本橋三越にて「宋瓷展」が催されます。興味深いのはその出品内容であり、当時図録として発行された「宋瓷(1929年)」を見ると、それまで高く価値付けされてきた青磁や天目は4点出品と少なく、新たな評価を得ていた磁州窯が31点と展覧会の主軸として置かれています。磁州窯は青磁や白磁に比べ、格段に日本からの出土例は少なく、伝世品として明治以前に流入した作品はほぼ確認されていません。鉅鹿からの大量出土というタイミングもあり、質の高い作品が市場に多く出現したことも一因ですが、白黒のモノトーンというシンプルで力強い意匠をもつ、この新しく現れた磁州窯こそ、鑑賞美術として受け入れられたのでないでしょうか。
20世紀の半ばになるまで中国本土の発掘は限られており、学術的な調査はほぼ行われていませんでした。多くのコレクターと研究者たちは、暗中模索の中、蒐めた陶磁器を一点一点手に取り丁寧に探究していきました。その研究を進めていった意義は大きく、展覧会や出版を通して世にその成果を公表していったことが、さらなる次の時代の新しいコレクターと育てる土壌へとつながっていきます。戦後、大きな社会構造の変化が起きたことで、富の変遷が行われ、全く新しい実業家たちが出現しました。そのような中で彼らは、美術品としての中国陶磁に魅され、オークション会社を使ったよりグローバルな手法で数々の作品を射止めていきます。現在大阪市立東洋陶磁美術館に蒐集品の多くが収められている安宅英一(1901-1994)、古代から清朝まで一代でその膨大なコレクションを築き上げた出光佐三(1885-1981)、自らがオークションに参加して作品を求めた松岡清次郎(1894-1989)へとつながっていくのです。
日本には長き歴史によって涵養された文化の蓄積があり、コレクターは美しいものを見出す審美眼とそれを次の世代に繫いでいくことの重要性をよく理解していました。そして普遍的な美を追い求めた彼らだからこそ、今以って多くの人々を魅了する中国陶磁コレクションをつくり上げることができたのです。彼らは蒐めた作品を特別に仕立てた桐箱に入れ、重要な作品はさらに漆塗りの箱を仕立てさせました。桐箱を締める真田紐にも独自の柄を施し、どこまでも作品対して深い愛情を傾けていきます。長く伝わる美術品にこのように敬意を払ってきたことが、地震や台風といった災害の多い日本でも多くの中国陶磁が現在も伝えられてきているのです。最後にひとりのコレクターの言葉を紹介します。彼は自らが集めた作品の桐箱に以下のようなことばを入れた蔵印を押しました。
「集散常規 願頒同好」
コレクションが集まりやがて散っていくのは世の常である。だからこれらが好きな人のところに頒かたれることを願う。
