
ライブラリ
平野古陶軒のライブラリは、中国陶磁・李朝陶磁をはじめとする東洋古美術の代表的なジャンルを、歴史的背景や見どころとともにご紹介するページです。とりわけこれらの陶磁については、ウェブ上でまとまった形の情報を得られる機会があまり多くありません。そこで、長年にわたり数多くの古美術品と向き合ってきた経験をもとに、体系立てて学んでいただけるよう資料としてまとめました。玉石・青銅器・漆工芸といった中国の工芸から、唐三彩や磁州窯・耀州窯などの陶磁器、そして朝鮮半島に伝わる陶磁まで、幅広いジャンルを網羅しています。初めて古美術に触れる方にも、専門的な知識をさらに深めたい方にも、お役立ていただける内容を目指しています。
中国玉石とは
中国において玉(ぎょく)は、単なる鉱物としてではなく、古来より徳性を宿す特別な存在として扱われてきました。現存最古の字書『説文解字』には、玉を「石の美にして五徳あるもの」とし、仁・義・智・勇・潔の五つの徳を体現するものと記されています。新石器時代に始まったその歴史は、途切れることなく現代にまで続いています。
軟玉と硬玉
中国の玉は、大きく軟玉と硬玉の二種に分けられます。軟玉(ネフライト)は角閃石の一種で、新石器時代から中国国内で採掘され、柔らかな黄緑色を帯びた半透明の玉質を特徴とします。一方、硬玉(ジェイダイト、ヒスイ輝石)は十八世紀、清朝の時代にミャンマーから輸入されるようになったもので、緑・淡緑・白色を呈し、磨くことで美しい光沢を放ちます。なお、ここでいう古玉とは、主に新石器時代から漢代にかけて作られた玉石を指します。
玉の産地
良質な玉の産地として知られるのが、新疆ウイグル自治区南西部のホータン(和田)です。崑崙山脈の密爾岱山や南山、なかでも玉龍哈什河から産出する玉は特に良質とされてきました。殷墟から出土した玉もホータン産と推察されていますが、正確な採掘地は今なお特定されていません。現在もホータンでは軟玉の採掘が続けられています。
時代による変遷
紀元前六千年から四千年頃の新石器時代に現れた初期の玉器は比較的小型で、文様は施されていませんでした。続く紅山文化・良渚文化の時代になると、器形は複雑かつ大型化し、多彩な文様が表現されるようになります。金属工具を持たない時代にこれほど高度な加工技術が確立された背景には、権力者の出現による社会の階層化があったと考えられています。殷・周時代に入ると青銅器の使用により文様の技法が陽刻から陰刻へと移行し、鳥や牛、兎といった具象的な意匠が増える一方、玉器そのものは小型化していきました。漢代には玉が黄金以上の価値を持つとされ、玉衣・含玉(蝉)・握玉(豚)など、死後に玉を身にまとわせることで魂が抜けるのを防ぐという信仰のもと、数多くの装身具や器物が作られました。南北朝以降は政情不安により玉石の製作は衰退し、良質な玉の入手も困難になります。以後、明・清の時代に白玉が用いられるようになるまで、玉石による作品は目立って少なくなりました。
「和氏の璧」の逸話
戦国時代、趙の恵文王が所有していた名玉「和氏の璧」をめぐる逸話も知られています。秦の昭襄王がこの璧と十五の城との交換を持ちかけ、趙の使者・藺相如が秦都咸陽へと赴きますが、昭襄王が城を譲る意思がないと見るや、璧を取り返し、自らの命と共に打ち砕こうとします。その気迫に昭襄王は璧と藺相如を解放し、璧は無事に趙へと戻りました。藺相如が「城を得られなければ、この璧を完うして戻ります」と述べたことから、「完璧」という言葉の語源になったとされています。和氏の璧はその後『韓非子』『史記』『十八史略』などにも登場しますが、現在は所在不明となっています。
日本国内における玉石のコレクションは、青銅器や陶磁器に比べて限定的で、収蔵先は以下のように限られています。
国内
- 東京国立博物館
- 出光美術館
- 黒川古文化研究所
海外
- 大英博物館(ロンドン)
- ギメ美術館(パリ)
- メトロポリタン美術館(ニューヨーク)
- シカゴ美術館
- フォッグ美術館(ケンブリッジ)
- フリーア・サックラー・ギャラリー(ワシントンD.C.)
中文
- 『故宮古玉圖録』国立故宮博物院、1988年
英文
- Jade, Berthold Laufer, 1912
- Jades Archaïques de Chine appartenant à C.T.Loo, Paul Pelliot, 1925
- Archaic Chinese Jade, Laufer, 1927
- Carved Jade of Ancient China, Alfred Salmony, 1937
- Chinese Archaic Jades in the British Museum, Soame Jenyns, 1952
- Chinese Archaic Jades, C.T.Loo, 1950
- Ancient Chinese Jade from the Grenville L. Winthrop Collection, Max Loehr, 1975
- Chinese Jade from the Neolithic to the Qing, Jessica Rawson, 1995
和文
- 『支那古玉図録』梅原末治、桑名文星堂、1955年
- 『殷周青銅器と玉』水野清一、日本経済新聞社、1968年
- 『中国古玉の研究』林巳奈夫、吉川弘文館、1991年
- 『中国古玉器総説』林巳奈夫、吉川弘文館、1999年
中国青銅器とは
古代中国では紀元前21世紀頃には既に青銅器文明が存在し、その後鉄器と入れ替わる戦国時代までの数百年にわたり、時代ごとの背景を映した形・文様・銘文が育まれていきました。中国青銅器はほかに類を見ない圧倒的な存在感を放ち、祭器・礼器としての役割を十分に果たしていたことが容易に想像されます。プリミティブな造形と繊細な技巧が調和したその姿は、数千年の歳月を経てなお、人類が生み出した最高峰の美術品の一つとして評価されています。
時代背景
中国青銅器の器形・文様・銘文には、いずれもその時代の政治的背景が色濃く反映されています。殷(商)代の青銅器は祭祀の道具として、続く西周代では礼器あるいは楽器として用いられました。殷代の青銅器文化を代表する遺跡としては、河南省安陽市の殷墟が知られ、多数の祭祀用青銅器や甲骨文が出土しています。西周代に入ると、青銅器は宗族の権威や身分秩序を示す礼制の道具としての性格を強め、儀礼の場で用いられる楽器としての鐘や鎛(はく)なども発展しました。
器形
青銅器の用途は時代とともに移り変わり、それぞれの用途に適したかたちへと変化していきました。酒を温めて注ぐための爵(しゃく)・觚(こ)、食物を盛る鼎(てい)・簋(き)、酒を貯える尊(そん)・壺(こ)、水を注ぐための盉(か)など、神を連想させる祭祀用のものから実用的なものまで、多彩な器形が生み出されました。これらの器形は、のちの陶磁器の造形にも大きな影響を与えています。
銘文
銘文は中国青銅器の大きな特徴であり、他の文化圏の青銅器にはほとんど見られない相違点です。殷代中頃から鋳込まれるようになったこの銘文は「金文」と呼ばれ、甲骨文とともに漢字の初期の姿を今に伝える貴重な資料となっています。銘文には氏族を示す徽号(きごう)や、祭祀・褒賞・戦功などの記録が刻まれ、当時の社会や歴史を知るうえで重要な手掛かりとなっています。
- 東京国立博物館
- 京都国立博物館
- 奈良国立博物館
- 出光美術館
- 根津美術館
- 泉屋博古館
- 白鶴美術館
- 台東区書道博物館
- 『中国の銅器』中央公論美術出版、1967年
- 『中国古銅器』杉村勇造、出光興産、1966年
- 『中国・美の名宝① 鬼神の礼楽―青銅器の世界』上海人民美術出版社、1991年
中国漆工芸とは
中国における漆器の製作は、およそ六千年前にまで遡るとされ、これを裏付ける遺品もいくつか発見されています。近年、中国の漆芸に対する関心は世界的にも著しく高まり、その研究も着々と進められてきました。ここでは、彫漆・平脱・沈金・存星・螺鈿・蒟醤といった代表的な加飾技法を紹介しながら、高い美意識と巧みな技巧から生まれた中国漆工芸の美しさをお伝えします。
漆工芸の加飾技法
漆工芸の加飾技法は、大きく「彫漆」のように漆そのものを彫り込んで文様をあらわす技法と、「平脱」「螺鈿」のように金属や貝といった異なる素材を漆面にはめ込む技法、そして「沈金」「存星」「蒟醤」のように彫り込んだ溝に金や彩漆を充填する技法とに分けることができます。
彫漆
漆を何層にも塗り重ね、文様を彫りあらわしたもの。漆の色や文様によっていくつかに分類されます。
- 堆朱:中国では剔紅と呼ばれ、朱漆を用いる。遅くとも宋元期には行われ、明代以降に盛行しました
- 堆黒:中国では剔黒と呼ばれ、黒漆を用いる
- 堆黄:中国では剔黄と呼ばれ、黄漆を用いる
- 犀皮:黄・朱・黒漆を塗り重ねた層を彫る技法。現存する遺例は少ない
- 彫彩漆:中国では剔彩と呼ばれ、朱・黄・緑・褐色などを塗り重ね、文様によって各色を彫りあらわしたもの
- 屈輪:渦巻文・蕨手唐草文など曲線の連続文様を彫りあらわしたもの。元・明代に流行し、この技法による盆や香合が鎌倉・室町時代の日本にもたらされました
平脱
漆地に金銀などの金属の薄板を文様に切って貼り付けたもの。中国では古代よりすでに行われていましたが、唐代になって流行し、花枝文・双鳳文・人物山水にいたるまで表現されました。銅鏡の鏡背装飾としたものは平脱鏡と呼ばれ、正倉院の御物にも優品が伝わっています。
沈金
中国では鎗金と呼ばれます。漆の面に極細の針状の刃物で細密な文様を描き、その上から生漆を擦り込み、金泥または金箔を施して磨くことで、溝に金を残して文様をあらわす技法です。銀を用いたものは鎗銀と呼ばれます。その起源は古代中国の填彩技法に遡るとも、漢代の線刻文様の漆器や、宋元の金銀胎の漆器に線刻を施した際にあらわれたものとも考えられています。
存星
それ以前からあった彫彩漆の技法に創意工夫を加え、明代中期頃に始められたとされる、比較的新しい装飾技法です。器胎に彩漆を厚めに塗って文様を彫り、そのくぼみに別の彩漆を埋め込んで全体を装飾します。明代前半の宣徳期にもこの技法による遺品がありますが、文様の輪郭線を沈金(鎗金)の手法で表現するようになるのは嘉靖期・萬暦期になってからのことです。存星の盆は、日本には茶道の普及とともに唐物干菓子盆として渡来し、盆のほか椀・盒子・箱などの茶道具としても珍重されてきました。
螺鈿
夜光貝やアワビ貝などを文様に切って漆面や木地に嵌め込んだり、貼り付けたりしたもの。唐代の螺鈿は厚貝を用い、木地または下地に嵌入・貼付したのち漆を数回塗り重ねて研ぎ出すか、貝の上の漆を塗って小刀などで剥がしてから仕上げます。木地に直接貝を嵌め込む木地螺鈿の例も多く見られます。明代には薄貝が主流となり、糊漆や膠漆で漆面に貼り付けたのち、上から漆を塗って研ぎあらわす技法が多く見られます。
蒟醤
文様を線刻し、その中に他の色の漆を充填して研ぎ出したもの。黒地に朱の文様をあらわす一色のものと、各色で文様をあらわしたものの二種があり、南方系の技法とされています。
- 東京国立博物館
- 京都国立博物館
- 出光美術館
- 根津美術館
- 大和文華館
- 『鎗金・沈金・存星』東京国立博物館、1974年
- 『中国の漆工芸』東京美術倶楽部青年会、1970年
- 『中国漆工藝』平野古陶軒、1991年
唐三彩とは
中国・唐代につくられた低火度焼成の三彩陶のことです。陶質の素地に白化粧あるいは透明釉を掛けたのち、緑や褐色の鉛釉を加えることで三つの色が互いに入り混じり、独特の文様をあらわします。コバルトの藍釉が加わったものや、緑・白、青・白といった二彩のものも含めて「三彩」と呼ぶことが一般的です。主として洛陽・長安における貴族の葬礼及び明器(副葬品)として使われたため、様々な器形や人形、家財をかたどったものがつくられました。その美しさと技術は、渤海三彩・遼三彩・宋三彩・新羅三彩・奈良三彩・ペルシア三彩など、広範かつ長期にわたって周辺地域に多大な影響を与えています。
唐時代
618年、隋末の乱を経て李淵・世民父子が立てた王朝です。以後、907年に朱全忠によって滅ぼされるまで、20代・300年あまり続きました。律令格式を基礎とする中央集権的な国家を確立させ、友好的な対外政策をしいたことで知られます。都は隋代の大興城を改称した長安城とし、洛陽城とともに継承しました。この二つの都を中心に、シルクロードを通じて伝わった西域・地中海の政治・経済・文化を吸収し、詩人の李白・杜甫・王維、敦煌莫高窟や龍門石窟、そして唐三彩を生み出すなど、芸術面でも大きく花開いた時代でした。
唐三彩の発見
光緒31年(1905年)、開封と洛陽を結ぶ隴海鉄道の敷設工事が、歴代の有名な墓葬地である洛陽北(邙山)にかかった際、大量の三彩が発見されました。以後、全国で発掘調査が進められています。唐三彩が出土する地域は陝西・河南・揚州・遼寧・江蘇・山西・甘粛・江西・湖北・広東(1995年時点)と広範囲にわたりますが、なかでも陝西省の西安と河南省の洛陽が特に出土が多く、次いで江蘇省の揚州が挙げられます。西安と洛陽は政治・経済の中心地であり、揚州はシルクロードの中継地であったことがその理由とされています。
華麗な装飾
唐三彩の装飾方法としては、貼花・刻花・印花といった技法が挙げられます。宝相華・唐草・蓮華・蓮葉・魚子・動物・人物などの文様と、緑・褐・白・藍釉の流斑あるいは点彩をうまく組み合わせることで、器体にふさわしい華麗な三彩の美しさを表現していきました。
様々な姿形
南北朝・隋代より受け継がれた西方文化の影響は唐代になっても息づき、三彩という表現方法を得たことで、多くの意匠が生み出されました。型づくり、轆轤、練り塑、彫刻などの手法が用いられ、造形的にも高い水準を保っています。
- 鎮墓俑:鎮墓獣・武士俑・天王俑・文官俑・十二支神俑・角端(胴は牛、尾は猿、足は虎、鼻は象で、人間の言葉を解し一日に萬里を走るとされる伝説の霊獣)
- 儀仗俑:男騎俑・女騎俑・武士騎俑・楽舞俑・騎射俑
- 侍僕俑:侍従俑・執役俑(男女共)
- 動物俑:馬・駱駝・驢馬・羊・犬・猪・鶏・鴨・鴛鴦・獅子・猿・象・虎・牛
- 飲食器:盤・碗・杯・鉢・盂・盆
- 貯盛器:罐・壷・瓶・奩
- 日用品:唾壷・水注・枕・硯・盒・燈・炉・塔式罐
- 建築材:瓦 ほか装飾品
- 玩具:厨房・車・銭櫃・山・池・厠・倉庫・小魚・小獅子・小象・小羊・小犬・小馬・小鶏・小猿
- 東京国立博物館
- 京都国立博物館
- 出光美術館
- 大阪市立東洋陶磁美術館
- 永青文庫
- 白鶴美術館
- 大和文華館
- 天理参考館
- たましん歴史美術館
- 五島美術館
- MOA美術館
- 故宮博物院
- 洛陽博物館
- 『陶磁体系35 唐三彩』平凡社
- 『世界陶磁全集9 隋・唐』小学館
- 『中国の三彩陶磁』三上次男他、太陽社
- 『三彩(日本の美術76)』至文堂
- 『唐三彩(陶器全集25)』小山冨士夫、平凡社
磁州窯とは
中国・河北省磁県彭城鎮を中心とした、華北最大の窯場です。特定の窯を指す名称ではなく、この地域でつくられた製品全体の総称として用いられることが多くあります。隋代には隋青磁がつくられていましたが、一般には唐末期より磁州窯磁としての製品が盛んに焼かれるようになりました。宋代から元代にかけて最盛期を迎え、明・清代を経て現在に至っています。
素地は灰色であるため、白土を化粧掛けし、透明釉を施して焼き上げます。白無地のものは白釉陶と呼ばれ、鉅鹿(きょろく)とも称されます。その白化粧をヘラで掻き陰刻などを施したものを白地掻落としと呼び、なかでも磁州窯のなかで最も評価が高いのが白黒掻落としです。これは白化粧ののち黒泥を掛け、その肌の黒泥のみを掻き落として白黒の文様を描き出したものです。
そのほかにも、白化粧の上に黒泥で文様を描いた白地鉄絵、緑釉を施した緑釉手、宋三彩、宋赤絵など、多彩な技法が生み出されました。色の異なる素地を練り合わせて大理石のような文様をあらわす練上手、化粧土や釉を流し込むように施し墨流し(水面に墨を垂らしたような)文様をあらわす墨流し手、柿色の柿釉手、飴色の飴釉手、そして河南省で焼かれた黒褐色の鉄釉茶碗である河南天目、黒釉のなかに油を流したような銀色の斑点が浮かぶ油滴天目といった技法も含め、河北・河南・山西・山東各省のほとんどの民窯で焼かれました。
鉅鹿の発見
中国・河南省南部の町名です。1920年、井戸を掘ったところ多くの陶片が出土しました。天津博物館の調査から、1108年(大観二年)に漳河の氾濫により、町が黄土の下に埋没していたことが判明しています。出土した陶器は北宋・大観二年以前のものであることが明確であり、宋代陶磁の研究に大きな発展をもたらしました。出土品は磁州窯系の陶器であり、この時期どのように生活の中で使われていたかが明らかとなり、白無地の白釉陶が多かったことから、のちにこれらを鉅鹿手と称するようになりました。
窯の構造・燃料
日本や朝鮮、南中国の多くでは傾斜地につくられた登り窯が主流で、窯全体が煙突の働きをする構造です。これに対し、窯跡調査報告によると磁州窯は馬蹄形(円形)をした横長の焼成室をもつ、北中国の基本形ともいえる形式で、定窯や耀州窯といった窯ともよく似た形をしています。世界的にも平地に築窯される場合が主流で、ギリシャ・ローマから現在のヨーロッパまでこの形式の窯が使われています。磁州窯系の窯は石炭を燃料として使っており、築窯も炭鉱の近くにされることが多くあります。燃料の調達が容易であることに加え、石炭層の上下には良質の粘土層があり、化粧掛けに使われる白土と鉄分を含んだ岩石も豊富にあることが、その大きな要因です。加えて水簸(土の精製)などのために製陶には大量の水が消費されることから、良質の水があることも必要条件とされました。
加飾技法と多彩な文様
磁州窯系のやきものは半磁器とも呼ばれる堅く焼き締まった灰色の素地からできており、この上にきめの細かい白土を水で溶いて掛けることで、白無地の磁州窯が生まれました。このやわらかな白化粧を基本として、時代の流れとともにさまざまな装飾技法が考えられていきました。こうした文様の多様さは、民窯であった磁州窯の自由な風土の中から生み出されたものです。政治的な束縛を受けない土壌であったからこそ、さまざまな技法が凝らされ、より美しい文様を追い求める意欲が育まれていったのだと考えられます。
陶枕
陶枕は六朝時代以前の玉枕の系譜を引継ぎ、唐・宋代に流行しました。各地で生産され、さまざまな形や文様が見られますが、なかでも磁州窯は数・種類ともに秀でており、虎形・孩児(童子)形・豆形など、多くの優品を生み出しています。
- 東京国立博物館
- 京都国立博物館
- 出光美術館
- 白鶴美術館
- 大阪市立東洋陶磁美術館
- 静嘉堂文庫美術館
- 大英博物館(英国)
- サンフランシスコ・アジア美術館(米国)
- ネルソン・ギャラリー(米国)
- ギメ美術館(フランス)
- 「観台窯址発掘報告」河南省文化局文物工作隊、『文物』1959年
- 「河南省密県・登封唐宋窯址調査簡報」河南省文化局文物工作隊、『文物』1964年
- 「河南省鶴壁集古代瓷窯址調査簡報」河南省文化局文物工作隊、『文物』1964年
- 『観台磁州窯址』北京大学考古学系・河北省文物研究所・邯鄲地区文物保管所、文物出版社、1997年
- 『陶器講座6 中国Ⅱ・宋』雄山閣
- 『陶器全集13 宋の磁州窯』平凡社、1958年
- 『陶磁体系39 磁州窯』平凡社、1974年
- 『中国の陶磁7 磁州窯』平凡社、1996年
- 『世界陶磁全集10』河出書房
- 『世界陶磁全集12 宋遼編』小学館
- Sung Ceramic Designs, Jan Wirgin, Bulletin of the Museum of Far Eastern Antiquities, 1970年
- Yuan Porcelain and Stoneware, Margaret Medley, London, 1974年
- Freedom of Clay and Brush through Seven Centuries in Northern China, Mino Yutaka, Indianapolis Museum of Art, 1980年
耀州窯とは
中国陝西省耀県銅川市附近に分布し、中国陶磁史において有名な窯場です。唐から元・明に至るまでの長期間にわたり活動し、その作風は華北・華南に影響を与え隆盛をきわめました。初唐には黒釉磁、盛唐には三彩や素胎黒花がつくられ、中唐には青磁が登場します。宋代に入ると片刃彫りや型押しによって文様をあらわしたオリーブグリーンの青磁を完成させ、その技術の高さを知らしめました。金代以降は次第に黄褐色の釉へと変化し、作風を変えながら明代以後まで続いていきます。
1930年代、咸陽から銅川への鉄道建設に伴い、大量の耀州窯青磁が発見されました。当初これらは「臨汝窯」「汝窯」(一部「東窯」)と呼ばれ、欧州では「北方青磁」などと称されましたが、この時点では耀州窯についてはっきりしたことは分かっていませんでした。1950年代に入り、陝西省文物管理委員会により本格的な調査が始まります。1954年には銅川市黄堡鎮にて陳万里が「徳応候碑」を発見、彬県の窖蔵からも大量の遺物が出土し、『耀瓷図録』が出版されました。その後も陳万里・馮先銘らによる調査が進み、耀州窯についての認識が高まっていきます。発掘調査からは、晩唐から元にかけての長期間にわたり多くの製品が焼かれ、宮廷への貢磁も焼成されていたと考えられています。1984年から1994年にかけては陝西省考古研究所により黄堡鎮の大規模な発掘調査が行われ、唐代の三彩や青磁、五代の官銘のあるもの、「東窯タイプ」と称されるものなど、多くの遺物が発見されました。この成果は中国陶磁史において非常に重要な意味を持つこととなりました。
唐代の耀州窯
唐の都・長安から80kmほどの距離にあり、燃料となる材木や陶土も豊富に存在し、漆河の両岸に広がる耀州窯黄堡鎮は、製陶地としての条件に恵まれていました。『唐代黄堡鎮址』(陝西省考古研究所、文物出版社、1992年)によると、黄堡鎮では初唐期に黒釉磁・茶緑末釉磁など、盛唐期には唐三彩・白磁などが焼成されており、晩唐には花釉薬なども見られます。当時、南方の青磁に対し北方では白磁の技法に優位がありましたが、耀州窯では刑州窯などに比べ粗い感じのする白化粧を施したものにとどまり、青磁については越州窯の影響を受けたと見られる蛇の目高台の碗が見つかっています。唐三彩は河南省鞏県や河北省刑州窯より少し時代が下がった盛唐期から中唐期にかけて生産されていたと考えられ、黄堡鎮でその遺品が多く発見されています。
宋代の耀州窯
北宋に入ると、それまでの青磁とは釉色が変化し、耀州窯として最も知られているオリーブグリーンの青磁があらわれるようになります。装飾技術についても五代の青磁を踏襲していますが、その要因の一つが燃料の変革による窯炉の構造変化です。それまで薪を利用していた燃料は、長年の使用により調達が困難になったため石炭へと移り変わり、窯炉もそれに対応できるよう変化していきました。このほか陶土の精錬や釉薬の改良など製陶技術にも大きな進展がみられ、歴代の耀州窯のなかでも際立った優品を生み出しています。五代に既に用いられていた劃花・剔花の技法を発展させた刻花の新たな技法が生まれ、文様の輪郭を斜めに幅広く削り、さらに細部を劃花で表すという、より立体的で優雅な線の表現に成功しました。また宋代中期にはより複雑な文様を表現する印花が登場し、陶範を用いて文様を写し取る技法が確立されます。こうした装飾技術の発達により、花卉樹木・瑞獣珍禽をはじめ魚類・人物など非常に多彩な題材の表現が可能となり、中国国内はもとより海外でも大きな人気を博すようになりました。代表的な作品には、宋代の「刻花牡丹文水注」や「印花宝相華文碗」などが知られています。
金代の耀州窯
宋代晩期につくられた月白釉と青磁釉の2種類が主流となり、造形も宋代のものに比べてやや厚みを増し、丸みを帯びたつくりとなっていきます。刻花・印花はともに引き続き用いられますが、文様は少なくなり、釉薬が厚く掛かることで玉のような質感を持つようになります。金代においては北方で唯一の青磁窯であったことから金の朝廷にも献納されましたが、後期から元代にかけては生産量の増大とともに文様も簡素となり、青磁としての厳しさを失うにつれ、次第に衰退への道をたどっていきました。
さまざまな文様
唐から元に及ぶ長期の活動期間において、さまざまな技法を凝らしながら多くの文様が表現されました。文様構成はその技法に大きく依存しており、特に印花には非常に多くの題材が残されています。
- 東京国立博物館
- 京都国立博物館
- 出光美術館
- 大阪市立東洋陶磁美術館
- 静嘉堂文庫
- 耀州窯博物館(中国)
- ギメ東洋美術館(フランス)
- クリーブランド博物館(米国)
- 『陝西銅川耀州窯』陝西省考古研究所、科学出版社、1965年
- 『中国陶瓷全集10 耀州窯』美乃美
- 『唐代黄堡鎮址』陝西省考古研究所、文物出版社、1992年
- 『五代黄堡鎮址』陝西省考古研究所、文物出版社、1997年
- 『宋代黄堡鎮址』陝西省考古研究所、文物出版社、1998年
- 『支那青磁史稿』小山冨士夫、文中堂、1943年
- 『世界陶磁全集10』小山冨士夫、河出書房、1956年
- 『陶器全集10 唐宋の青磁』小山冨士夫、平凡社、1965年
- 『世界陶磁全集12 宋』矢部良明、小学館、1977年
- 『陶磁大系36 青磁』小山冨士夫、平凡社、1978年
- 『中国美術シリーズ5 耀州窯の青磁』大阪市立東洋陶磁美術館、1991年
- 『中国の陶磁4 青磁』平凡社、1996年
- Chinese Celadon Wares, G.St.G.M. Gompertz, Faber and Faber, 1958年
- Illustrated Catalogue of Celadon Wares, Margaret Medley, University of London, 1977年
- Ice and Green Clouds, Traditions of Chinese Celadon, Mino Yutaka, Indianapolis Museum of Art, 1987年
青花とは
白磁の釉下にコバルトで絵付けを施した磁器のことで、青花とは中国における染付の呼称です。元代に始められた技法で、当時、西方ペルシャより輸入されたコバルトを用い、濃厚な青で複雑な文様をあらわしたものが多く、重厚な器形と調和し力感に満ちています。きめが細かく純白に近い磁器質の胎土と、釉下に施された青色の文様は、長期間使用しても退色・剥落することがありませんでした。明代に入ると景徳鎮に官窯が設けられ、明初の永楽・宣徳年間には様式・技術ともに洗練され、整美な作風を誇り、その後も長きにわたり生産が続けられました。
青花の起源
コバルトの使用は紀元前7世紀にはすでに見られ、一方で釉下への彩絵技法も唐以前の遺物から確認されています。つまり、青花の技法を生み出す土壌は早い段階から形成されていたにもかかわらず、その登場は元代に至るまで確認されていません。現在、デビット財団(英)が所蔵する青花雲龍文双耳瓶は至正11年(1351年)の紀年を持ちますが、この瓶がすでに元様式の完成されたかたちであることから、青花の起源が1351年以前のどの時期にさかのぼれるかが研究の対象となっています。1331年以後に沈没したとされる韓国新安沖の沈没船から青花磁器は発見されておらず、上海市青浦県にある元末・任氏の墓跡からも青白磁は大量に見つかるものの青花は存在しません。1349年に著された『島夷志略』(汪大淵)は1330~1339年の南洋諸国航行を記したものですが、その中に貿易品として「青白花磁器」という記述があるなど、さまざまな理由から現段階では1330年代に青花磁器の様式が確立してきたと考えるのが有力です。
元代の青花
現時点の研究では染付の起源とされ、異民族統治のもと飛躍的な装飾技法の発展を遂げました。主な輸出先であったイスラム圏の影響を受けながら、さまざまな器形や文様を生み出し、ひとつの様式をつくり上げています。
明代の青花
御器廠が置かれた景徳鎮を中心に、元代に発展した青花磁をさらに洗練させた永楽・宣徳期、青花の新たな展開ともいえる成化期、そして民窯の力が増した嘉靖期など、明代はいくつかの時期に分けられ、その様式の特徴や背景はさまざまです。
明末清初の青花
国の乱れとともに崩れていった官窯体系も、清朝に入るとそれまでの技術を改めて集大成させ、「精磁」と呼ばれるほど精緻を極めた厳しい磁器を生み出していきました。しかし色釉がその生産の中心となるにつれ、青花磁の生産は徐々に民窯へと移っていくこととなります。
青花の顔料
一般にコバルトと呼ばれる顔料は、鉄・マンガン・珪石などの不純物を多く含んでおり、コバルトの成分はむしろ低いものです。これらの不純物の成分比率により顔料としての特徴があらわれ、それぞれの産出地をある程度特定することができます。
- 回回青:元
- 蘇麻離青:永楽・宣徳・成化
- 陂塘青(平等青):成化・弘治・正徳
- 無名子(石子青):正徳・嘉靖
- 回青(回回青):正徳・嘉靖・隆慶・萬暦
- 浙青:萬暦
民窯
磁都と称された景徳鎮には官窯と民窯とが存在し、それぞれの役割のもとでさまざまな青花磁がつくられていました。民窯は技術的に遅れをとっていた分、自由な活動が許されており、中国本土より遠くアフリカまでの広い範囲で需要を満たしていたことが分かっています。
釉裏紅
青花と同様に白磁の釉下に絵付けを施した磁器ですが、青花がコバルトを用いるのに対し、釉裏紅は銅紅を用いて文様をあらわします。元代にその技術は確立されていましたが、透明釉が用いられることはなく、青白釉を施していたため微妙に青みを帯びた肌になっています。また文様をあらわすというよりも文様を引き立てる色として用いられ、白抜きや地塗りとして使われることが多くありました。これが洪武期に入ると透明釉が施されるようになり、一部塗り込んだものも見られるものの、文様を線描であらわすように変化していきます。釉裏紅は技術的に非常に高度な温度調整が必要となるため、紅色はやや淡く、少し灰色がかったものも多く、貫入が入る場合もあります。文様は花卉文が多く、牡丹や蓮花、扁菊の唐草文などが主に使われました。洪武期は釉裏紅が最も隆盛した時代であり、その後は技術的な向上を得たものの単調な構図へと変化していきます。宣徳以後は次第に技術が失われ、200年を経て康熙になって復興されるまで、しばらくの間その姿を隠すこととなりました。
代表的な作品例
元代の青花牡丹唐草文壷、明・宣徳の青花牡丹唐草文鉢、明・正徳の青花龍文皿、清・雍正の青花白抜龍文碗など、時代ごとに様式の異なる作品が知られています。
- 東京国立博物館
- 京都国立博物館
- 出光美術館
- 大阪市立東洋陶磁美術館
- 白鶴美術館
- 大和文華館
- 戸栗美術館
- 松岡美術館
- 『世界陶磁全集11 元・明』河出書房
- 『陶磁体系 元明の染付41・42』小学館
- 『世界陶磁全集14 明』
- 『故宮蔵瓷 明彩瓷1・2』故宮博物院
- 『中近東の中国陶磁』三杉隆敏、学芸書林
五彩とは
白磁の釉上に赤や緑、黄色などの上絵具で文様を描き、低温度の窯で焼きつけたもので、日本では赤絵と呼ばれます。5つの色を使っているために五彩と呼ばれるわけではなく、多くの色で彩るという意味です。明代以降、景徳鎮を中心として盛んになり、嘉靖期には金彩を加えた金襴手なども登場しました。民窯でも南京赤絵や天啓赤絵など多様な五彩が焼かれ、中国国内のみでなく多くの五彩が海外へも輸出されました。清・康熙以降は精巧な五彩が官窯でつくられるようになり、粉彩や洋彩など新たな技法も生まれていきました。
五彩のはじまり
発掘調査や輸出陶磁の遺品などから、元代の景徳鎮ではじまったとされる説が有力ですが、いつごろはじまったのかについて正確なところは現在も分かっていません。磁州窯の赤絵や三彩技法を取り入れたとの説もありますが、あくまでも推測の域を出ず、今後の調査報告が注目されています。
宋赤絵
上絵付技法は金代・磁州窯の宋赤絵にみられます。素地に白化粧を施して透明釉を掛け、その上から赤・緑・黄などの上絵付で花鳥・草花文を描いて低火度で焼き付けています。景徳鎮の五彩に比べ、乳白色の素地に絵付されるためやわらかな印象を持ち、民窯独特の味わいのある意匠をあらわしています。五彩にどのような影響を与えたかについて詳しいことは分かっていませんが、その関連を完全に否定することも難しいとされています。
珠山ー発掘調査
景徳鎮市陶瓷考古研究所によって行われた御器廠・珠山の発掘調査は、官窯の実態解明に大きな役割を果たしました。官窯として最高品質を保つために未完成あるいは未完品として破棄された数多くの遺物が見つかったことは、稀少な伝世品では知ることのできなかったさまざまな技法について多くを語る貴重な資料となりました。珠山の発掘では大量の成化磁器片も見つかっています。それらを調査したところ、かなり完成度の高い製品がつくられていたにもかかわらず、ほんの小さな傷や書き損じなどにより弾かれ、さらにはその印として故意に開けたと思われる穴が底部付近に残されています。同時に窯道具など磁器以外のものが捨てられていないことからも、処分品というかたちで集められていたと推測され、厳しい検査・管理体制が確立していたことをうかがわせます。それらの磁器片には、それまで知られていなかった径20センチを超える鉢や、さまざまな形式の「天」字罐が見つかっており、文様は花・果実・鳥・霊芝・八宝などさまざまで、様式としてかなり整理されていることが分かります。また豆彩以外にも黄地緑彩・黄地紫彩・紅地緑彩といった五彩や、黄地青花・翡翠釉青花、紅彩・黄彩・緑彩といった単彩、なかには三彩や黒地翡翠彩なども存在し、成化官窯がいかに柔軟な発想を生み、活性化していたかをよくあらわしています。
明初~弘治・正徳
現時点の研究では五彩の起源は元にあるとされ、明初期を通じて青花に倣いつつさまざまな過程を経て、ついに成化期に豆彩をつくり上げます。官窯でしかつくることのできない、採算性を問わないものづくりは、完全な形で豆彩を生み出し、その端整な姿と淡く優美な色彩は後世の人々を魅了しました。
嘉靖~萬暦
この時期、民衆の力が増すとともに国内経済は活性化し、陶業もその影響を受けて景徳鎮の生産は倍増、陶工の数も増え分業化が進むようになりました。それまでの基軸であった青花においては民窯の参加(官塔民焼制)により自由な生産体制が敷かれ、新しい装飾方法である五彩に至っては、より注目される技法としてさらなる発展を遂げました。
民窯
青花と同様に、民窯は官窯とともに当初より存在し、官窯に対する技術的な遅れを自由な発想で補っていました。初期の段階の民窯五彩についてはまだ分かっていない部分が多く、民窯がその活動の範囲を広げた嘉靖期の研究が進められています。その多くが味わいある趣で茶道の世界と合致していたため、日本では大変もてはやされ、多くの遺品が伝わっています。なお、天啓赤絵・南京赤絵については、「古染付」の項目もあわせてご覧ください。
金襴手
嘉靖の頃、五彩に金彩を施した磁器のことを、日本では金襴手と呼びました。技術的な意味合いよりも様式として捉えられることが多く、他の民窯五彩と同様に日本に多くの遺品が伝わっています。器形や文様の多様さと、金彩と五彩によるあざやかな色彩は、それまでにない艶やかさを陶磁器の世界にもたらしました。
- 東京国立博物館
- 京都国立博物館
- 出光美術館
- 大阪市立東洋陶磁美術館
- 戸栗美術館
- 松岡美術館
- 『世界陶磁全集11 元・明』河出書房
- 『陶磁体系 明の赤絵43』平凡社
- 『世界陶磁全集14 明』小学館
- 『金襴手名品集』小山冨士夫、芸艸堂
- 『故宮蔵瓷 明彩瓷1・2』故宮博物院
- 『中近東の中国陶磁』三杉隆敏、学芸書林
古染付とは
一般に中国・明末の天啓年間(1621~27)あるいは崇禎年間(1628~44)頃につくられ、江西・景徳鎮の民窯で焼かれた染付磁器のことをいいます。南方民窯の呉須手とは区別されます。高砂手・桜川水指・羅漢手の反鉢・魚形の向付など、明らかに日本向けとされるものも含まれ、重厚なつくりと、陶工の意匠を素直にあらわした飄逸みにあふれる文様が特徴です。その味わい深さから茶人に親しまれ日本で珍重され、ほとんどの遺品は日本にのみ伝わっています。
呼称の由来
古染付の呼称については諸説ありますが、江戸時代の資料にはみられないことからも、決して古くから使われていた言葉ではありません。茶会記や箱書きによると、それ以前には「南京」つまり中国渡りの染付という意味で「染付南京」と呼ばれていたようです。その後、江戸後期に伝わった煎茶道具の清朝染付に対し、初期に渡った古渡りの染付を「古染付」と呼んだとの説が一般的です。
明末の景徳鎮
明末の景徳鎮では、萬暦帝の御器廠への焼造下命がおびただしい量となり、碁石・碁盤・碁罐・屏風・燭台・筆管といった食器以外のものまで用命されました。その結果、原料の消費は甚だしく、麻倉の採土坑は深く掘り下げられ、役人は私腹を肥やし、陶工らは辛酸をなめることとなりました。しかし萬暦帝の崩御により御器焼造は中止となり、御器廠は事実上の閉鎖を迎えます。このような背景のなかで、景徳鎮の民窯によっていわゆる古染付、天啓赤絵・芙蓉手・祥瑞・南京赤絵が生み出されていきました。
古染付の特徴
銘
古染付には「大明天啓年製」「天啓年製」あるいは「天啓年造」といった款記が底裏に書かれていることがあり、このほかにも「天啓佳器」といったものや「大明天啓元年」など年号銘の入ったものも見られます。また年号銘でも「成化年製」「宣徳年製」など偽銘を用いた作例もあり、優品を生み出した過去の陶工に敬意を払いつつも、それまでの様式にとらわれることはありませんでした。これらの款記は正楷書で二行もしくは三行であらわされるのが慣例とされていましたが、比較的自由に書かれており、まるで文様のひとつとして捉えていたようにも思えます。それ以前の景徳鎮ではこのように自由な作例はみられず、民窯であったからこそ陶工の意匠を素直にあらわした染付を生み出すことができました。
虫食い
天啓で使われていた陶土は決して上質のものではなく、そのため焼成時に胎土と釉薬の収縮率の違いから虫食いと呼ばれる特徴が生まれてしまいます。特に口縁部は釉が薄く掛かるために気孔が生じて空洞となり、冷却時にその気孔がはじけて素地をみせるめくれが残ってしまいます。本来、技術的には問題となるところを、当時の茶人は虫に食われた跡と見立てて鑑賞の対象としました。これは古染付特有の特徴としても知られています。
絵付
土青による濃青な発色をうまく使い、さまざまな器形に合わせて絵画的な表現を用いて絵付を行いました。それまでの型にはまった様式から一歩踏み出し、自由奔放な筆致で明末文人画を例にとった山水や花鳥、羅漢・達磨などを描いています。
器形
中国では元来、小皿の形の多くは円形をなしています。古染付でも円形の小皿は多くみられますが、そのほかにもさまざまな器形がつくられています。十字形手鉢・木瓜形手鉢・扇形向付といったものは織部にも見られる器形であり、日本から木型などを送って注文をしていたのではないかとも想像できます。轆轤を専門としていた景徳鎮において、手捻ねへの突然の変更は難しいものでしたが、注文に応じていくうちに、さらに独創的な形(菊形・桃形・柏形・魚形・馬形・海老形・兎形)を生み出し、古染付独自の器形をつくり上げていきました。
天啓赤絵
古染付と時を同じくして天啓年間(1621~27)にはじまり、景徳鎮の民窯にて焼かれた赤絵のことをいいます。萬暦まで続いた官窯様式から脱却した古染付に、朱・緑・黄で上絵付を施しています。その特徴は古染付とほぼ同様ですが、古染付に比べて生産量はかなり少ないものです。
南京赤絵
南京とは中国を意味する言葉として使われており、南京赤絵とは中国・明末の赤絵のことをいいますが、狭義では天啓赤絵・色絵祥瑞らと区別して使われることが多くあります。その意味で南京赤絵は、明末に景徳鎮でつくられた五彩のことを指し、施文には染付を用いず主として赤・緑・黄を使い、染付は銘など一部に限られています。華麗な意匠のものが多く、口縁には鉄砂で口紅が施されるもの、金彩を加えた豪華なものもあります。
祥瑞
祥瑞(しょんずい)は、古染付とほぼ同時期の明末・崇禎年間頃に景徳鎮で焼かれた染付磁器で、日本の茶人からの注文によりつくられたと伝えられています。器の底に「五良大甫吳祥瑞造」という銘が入ることで知られ、幾何学的な文様や吉祥文様を几帳面に配した精緻な作行きが特徴で、飄逸みのある古染付とはまた異なる端正な趣を持っています。
- 東京国立博物館
- 京都国立博物館
- 出光美術館
- 滴翠美術館
- 『陶磁体系44 古染付・祥瑞』平凡社
- 『陶磁体系45 呉須赤絵・南京赤絵』平凡社
- 『世界陶磁全集14 明』小学館
- 『古染付』京都書院
高麗陶磁とは
10世紀頃より中国・越州窯の影響を受けながら、12世紀には「翡色青磁」と呼ばれる高麗独自の青磁をつくりだすようになります。なかでも特に注目されるのが、素地の表面を彫り、白土・赤土などをその部分に嵌め込んで文様をあらわし、最後に青磁釉を掛けて焼成する象嵌青磁です。その優美さと気高さをあわせ持つ青磁は高麗でのみつくられ、中国・日本など他の地域には見られない独創性を発揮しました。このほか、釉下に鉄絵で文様を描いた青磁鉄絵、銅系の彩料を用いて紅彩を施した青磁辰砂など、さまざまな装飾技法が生み出され優品を生みました。しかし高麗も末期になると作風も変化し、王朝の終わりとともに高麗青磁は粉青沙器へと移り変わっていきます。
翡色青磁
12世紀前半頃の高麗青磁の、深く澄んだ釉色のことをいいます。中国・宋の使節による見聞録『宣和奉使高麗図経』のなかに、高麗の人々が青磁の釉色を翡色青磁と呼んでいるとの記述があります。越州窯の「秘色青磁」に対して、あるいは玉の意を指し「翡色青磁」と呼んだのではないかと考えられており、高麗青磁の幽玄優美な姿をうまく表現した呼び名です。
時代背景
918年、王建が朝鮮半島に立てた王朝です。都を開城に定め、仏教を国教とし、官僚制度を敷きました。国勢は遼・金・元の相次ぐ侵攻により、一時的な安定期を除いて脅かされることが多く、1392年、ついに李成桂によって滅ぼされ、470余年の王朝は幕を閉じます。とりわけ13世紀の蒙古(元)による侵攻は国土を大きく疲弊させ、それまで高い水準を保っていた青磁の質にも少なからぬ影響を与えたと考えられています。美術に関しては、新羅からの文化を引き継ぎ、中国・北宋・遼からの影響を受けながら洗練された美意識を独自に確立し、高貴かつ崇高な高麗美術を完成させました。
産地
高麗青磁の代表的な産地としては、全羅南道の康津(カンジン)や扶安(プアン)が知られています。なかでも康津は良質な青磁を数多く生み出した窯場として名高く、王室や貴族へ納める最上級の青磁もここで焼かれていたと考えられています。
加飾技法
9~10世紀頃、中国の越州窯の影響を受けてはじまった高麗青磁は、翡色と呼ばれる釉色とともに、さまざまな加飾技法も生み出していきました。なかでも象嵌青磁に見られる絵画的表現は、それまでの中国には見られなかったもので、艶やかで奥深い青磁の美しさとあいまって、陶磁器に高麗独自の優美さをもたせています。象嵌青磁の技法のほか、もともと中国でも行われていた、文様を彫り込む陰刻、文様を浮き上がらせる陽刻、型を用いて文様を写し取る印花、そして非常に珍しい金彩青磁などの装飾も施されました。
- 東京国立博物館
- 京都国立博物館
- 大阪市立東洋陶磁美術館
- 高麗美術館
- 韓国国立中央博物館(韓国)
- 韓国国立慶州博物館(韓国)
- Leeum(サムスン美術館、韓国)
- 湖厳美術館(韓国)
- メトロポリタン美術館(米国)
- 大英博物館(英国)
- ギメ美術館(フランス)
- 『陶磁体系29 高麗の青磁』平凡社
- 『世界陶磁全集18 高麗』小学館
李朝陶磁とは
高麗青磁から転化したと考えられる粉青沙器は、李朝初期の主流をなしました。これらは日本で三島・刷毛目・粉引などと呼ばれ、茶陶として深く親しまれています。鉄分を多く含んだ鼠色の素地に、白土の象嵌および化粧掛けが特徴です。白磁は高麗白磁を受け継いで初期にはつくられ、中国・明初様式を写した純白のものから、堅手と呼ばれる灰白色の白磁、金沙里窯を中心に焼かれ厚い釉が施された乳白色の白磁、そして分院窯における薄い青緑色の白磁へと変遷していきます。李朝500年を通じて高く評価され続けた背景には、儒教精神が人々のなかに深く息づき、清浄な白に対する特別な思いがあったのではないかと考えられます。15世紀中頃から中国・明初の影響を受けてはじまった青花白磁は、壬辰・丁酉の乱を経て大きく姿を変え、李朝独自の様式を確立していきます。銅系の顔料を使い紅色を呈する辰砂は、青花と同様、中国の釉裏紅の影響からつくられました。中期から末期にかけてよくつくられ、特に末期の分院窯に多いと考えられています。鉄砂は15世紀より白磁を下地とした白磁鉄砂が生まれたといわれますが、その遺例は極めて少なく、17世紀頃が最も盛んであったとされます。文様は官窯の画員が描いた写実的なものから、陶工による大胆かつ力強い筆致のものまで変化に富んでいます。このほか、器表全面に青花を施した瑠璃釉や、鉄釉を全面に掛けた総鉄絵、辰砂による総辰砂などもみられます。李朝陶磁は柳宗悦らの民芸運動によってその魅力が日本に紹介され、数多くの愛好家を生みました。特に中国陶磁にはない柔らかさや優しさ、人の温もりを感じさせる李朝陶磁は、手元に置いて使ってみたいと思わせる心安らぐ作品が多く、美しさとともにある日常性にこそ最大の魅力があるのでしょう。
一つの時代の一つの分野の美術工芸を取り上げて、その国の美術史全体の総括的な特性を推し測ろうとする試みは、思考の短絡化につながる危険性を多分にはらんでいる。それにもかかわらず、朝鮮半島のひとびとの持っている豊かな想像性や、ふところの深い自然性にはぐくまれたその国の美術工芸について考える時、すぐにも髣髴してくるのは李朝の陶磁である。それは朝鮮半島の文化に対しても、わび・さびという特殊なフィルターを濾過して見ようとする日本特有の性癖から抜け切れないせいであろうか。しかしなお、それにもかかわらず、李朝の陶磁は朝鮮半島の作りあげた文化遺産のなかで、ひときわ強くその民族の香りを伝えるものとして現前してくる。この間の事情については、すぐれた美術史家であったH.ヴェルフリンが時代様式について語った次のような一節が説明してくれるかもしれない。「時代と時代との優劣を決することは、常に幾分の危惧を伴うものである。それにもかかわらず、おのおのの民族がその美術史において、他の時代に増しその国民的長所を特に発揮すると思われる時代を持っているという事実は見逃せないであろう。」
伊藤郁太郎(東洋陶磁美術館前館長)「李朝の磁器展図録(平野古陶軒)」より李氏朝鮮
1392年、李成桂が高麗王朝・恭護王を滅ぼし、国号を朝鮮と称したことから「李氏朝鮮」と言われますが、一般には李朝と呼ばれます。1910年の日韓併合まで500年余りの長きにわたって存続しました。首都を開城から漢陽(ソウル)に移し、官僚制度を整備。また仏教を排して儒教を国教とし、4代世宗の時には国字のハングルをつくるなど、中国の影響から脱却し李朝独自の文化を形成していきました。
李朝文具
李朝は500年もの長い間、文官が政権を支配し、儒学を中心とした学問が栄えた、歴史的にも貴重な時代です。そのような背景のなかで、多くの優れた文房具が生み出されていきました。李朝文具は後期から末期にかけて特に多くつくられ、そのほとんどは分院窯で焼かれたものと考えられています。器形・文様ともに実に多彩で、様式にとらわれない変化に富んだ意匠を見せています。
李朝染付
15世紀なかばごろに出現しました。当初は中国陶磁の影響を強く受けながらも、胎地、釉薬、器形ともに精選され、技術的にも芸術的にも品質の高い染付磁器をつくりあげていきました。その後もさまざまな外憂に悩まされつつ、金沙里、そして分院といった官窯を長期間にわたって維持し、少しずつそのかたちを変えながら、李朝独特の温もりと優しさをもった様式を生み出すに至りました。
粉青沙器
「粉粧灰青沙器」の略称です。鉄分の多い鼠色の陶土に白土を化粧掛けし、その上から透明釉を施して焼成したもので、日本では一般に三島・刷毛目などと呼ばれ、古くから茶人に愛されてきました。14世紀末、釉胎が硬質化しはじめた高麗青磁を母胎として粉青象嵌へと移行し、その後15世紀初め頃より粉青印花といった白土装飾が行われるようになり、李朝様式を確立していきます。その装飾方法は多様で、いずれも型にとらわれない自由な造形をなし、奔放さのなかに力強さを感じさせます。15世紀後半に官窯で白磁がつくられはじめると、粉青刷毛目や粉青鉄絵などが展開し、その後16世紀末の壬辰の乱を機に衰退していきました。
柳宗悦
1889年(明治22年)、東京麻布に生まれました。学習院高等科在学中に武者小路実篤・志賀直哉らとともに「白樺」を創刊し、キリスト教神学等の研究や西洋近代美術の紹介に努めました。その後、東京大学哲学科を卒業。バーナード・リーチと知り合い、その影響から英国の象徴詩人で画家でもあったウィリアム・ブレイクの思想に共鳴して研究を深めます。自らの直感に重きを置くブレイクの思想を通して、東洋の老荘思想や大乗仏教にたどり着き、宗教的真理と美の真理の同一性を見出していきました。同じ頃、朝鮮にたびたび渡り、雑器としてその価値を見出されずにいた「李朝美術」に温厚で静寂な美しさが込められていると、いち早く直感し、ソウルに「朝鮮民族美術館」を開設します。1924年から3年をかけて、江戸期につくられた木喰上人の「木喰仏」の研究に励み、その経験から民家のなかに息づいてきた工芸品の美の姿に、李朝美術とともに仏においても発見することで、より深い確信へと至ります。浜田庄司・河井寛次郎らとともに1929年(昭和4年)「日本民藝美術館設立趣旨」を発表し、「用の美」を「民藝」という言葉ではじめて表し、その理論づけとして雑誌『大調和』に「工芸の道」を発表しました。1933年(昭和8年)には雑誌『工芸』を創刊、1934年(昭和9年)日本民芸協会を発足させ、大原孫三郎の援助を受けて1936年(昭和11年)、東京駒場(目黒区)に日本民藝館を設立、館長に就任し、館を中心とした展覧会活動などを幅広く展開していきました。晩年、「用の美」の探求を深めるにつれ、やがて「信と美」の結び付きへと行き着き、阿弥陀の本願による力にその答えを求めようとしました。美の追求という難題を仏教思想に基づいてさらに研究を続け、1961年(昭和36年)に逝去。1957年(昭和32年)文化功労者、1960年(昭和35年)朝日文化賞を受賞しています。
- 東京国立博物館
- 京都国立博物館
- 大阪市立東洋陶磁美術館
- 出羽桜美術館
- 日本民藝館
- 韓国国立中央博物館(韓国)
- 韓国国立慶州博物館(韓国)
- Leeum(サムスン美術館、韓国)
- 湖厳美術館(韓国)
- 梨花女子大学校博物館(韓国)
- メトロポリタン美術館(米国)
- 大英博物館(英国)
- ギメ美術館(フランス)
- 『陶磁体系31 李朝の染付』平凡社
- 『世界陶磁全集14 李朝』河出書房
- 『世界陶磁全集19 李朝』小学館
- 『李朝白磁抄選』創樹社美術出版
