中国陶磁が世界を魅了する理由

中国陶磁が世界的に高く評価されている理由を一つに求めることは難しい。4000年を超える陶磁の歴史、その中で蓄積されてきた作品の質と量、王朝ごとに繰り返された技術革新、造形・釉薬・装飾の多様性、そして世界各地に形成されたコレクションと巨大な市場。そのすべてが複雑に重なり合い、現在の中国陶磁の位置を形づくっています。長年、中国陶磁を扱い、日本だけでなくロンドン、ニューヨーク、香港、パリなどの市場を見てきた立場から考えると、とりわけ重要なのは、中国陶磁が持つ圧倒的な「幅」と「オリジナリティ」、そして最高水準の作品そのものが世界各地に存在していることだと思います。
異なる美意識を受け止める多様性
中国陶磁の大きな特徴は、一つの美意識だけでは括ることのできない多様性にあります。唐、宋、元、明、清と時代が移れば、造形、釉調、絵付け、用途は大きく変化します。同時代であっても、地域、窯、需要者の違いによってまったく異なる作品が作られました。宋磁には釉調と造形そのものを極限まで追求したような静謐な作品があります。一方、元青花には絵画的な筆致と強い構成力を備えたものがあり、明清官窯には、宮廷の要求に応える高度な技術と精緻な装飾を追求した作品があります。同じ「中国陶磁」という言葉の中に、これほど多彩な美が共存しています。
国際市場を見ていると、国や地域によって好まれる作品にも違いがあることに気づきます。日本には、比較的静かな釉調や抑制された造形に惹かれる長い伝統があります。一方、アメリカでは大型の作品や造形的に強いもの、仏教美術や装飾性を備えた作品が重要なコレクションを形成してきました。イギリスやフランスにも、それぞれの蒐集史と文化的背景に根ざした嗜好があります。もちろん、これは国ごとに単純に分類できるものではありません。しかし、異なる文化圏が異なる入口から中国陶磁に接してきたことは確かです。
重要なのは、中国陶磁にはそうした異なる美意識を受け止められるだけの作品が存在することです。静謐さを求めてもいい。力強い造形を求めてもいい。絵画性、色彩、装飾性、あるいは技術的な完成度を求めてもいい。4000年を超える歴史の中で形成された膨大な「メニュー」があり、そのどこかに自分の美意識と接続するものを見つけられる。この質と量の双方における厚みは、中国陶磁が世界的な美術分野となった大きな理由の一つでしょう。
王朝と技術革新
では、なぜ中国ではこれほど多様な陶磁器が生み出されたのでしょうか。一つの重要な要因は、歴代王朝における権力と陶磁器生産の関係にあると考えています。中国陶磁の歴史では、皇帝や宮廷など、強い権力と大きな需要を持つ層が陶磁器生産に深く関係してきました。
より良質な原料を用いる。焼成技術を高める。新しい釉調を実現する。より高度な絵付けや造形を求める。
高い水準を要求する需要者が存在し、それに応えようとする生産者がいた。その緊張関係が、さまざまな技術革新を生み出してきました。さらに重要なのは、単なる技術の進歩ではありません。中国では王朝が替わり、政治体制や社会、国際関係、文化そのものが大きく変化してきました。唐の美と宋の美は同じではありません。元、明、清へと移れば、社会が美術品に求めるものも変化します。
つまり中国陶磁の多様性とは、技術史であると同時に、それぞれの時代の文化史でもあるのです。時代が変わるたびに、新しい技術と新しい美意識が出会う。その繰り返しによって、現在私たちが見る膨大な作品群が形成されました。
世界に散った最高峰の作品
中国陶磁が世界的な美術となった背景を考えるとき、作品そのものが世界を移動した歴史も無視できません。中国から国外へ渡ったのは、海外市場を意識して作られた輸出陶磁だけではありません。歴史上さまざまな経緯によって、中国美術を代表するような優品も国外へ渡り、ヨーロッパ、アメリカ、日本などに重要なコレクションが形成されました。その結果、現在では大英博物館、メトロポリタン美術館、ギメ美術館、東京国立博物館をはじめ、世界各地で中国美術の最高水準の作品に接することができます。
これは中国美術の国際的な評価を考えるうえで非常に重要なことだと思います。美術において、最高峰の作品を実際に見ることの影響は大きい。仮に中国美術の最重要作品のほとんどが中国国内にとどまっていたならば、世界各地における研究、蒐集、そして市場の形成は現在とはかなり異なったものになっていたかもしれません。
名品が世界各地に存在したからこそ、それを見る研究者が生まれ、蒐集家が生まれ、美術館がコレクションを形成し、次の世代が再びそれを見ることができた。作品が移動することによって、作品を見る「眼」も世界へ広がっていったのだと思います。
オリジナルの持つ力
中国陶磁について考えるとき、私自身が非常に重要だと思っているのが「オリジナル」ということです。例えば青花(染付)で考えてみます。中国で発展した青花磁器は各地へ輸出され、その影響は日本やヨーロッパにも及びました。日本では伊万里をはじめとする磁器文化が発展し、ヨーロッパでは長い中国磁器への憧憬と模倣の後、マイセンなど独自の磁器生産が成立していきます。それぞれの文化圏で生まれた作品には、もちろんそれぞれ独自の価値があります。
しかし、元青花など初期の優品を実際に前にすると、そこには後世の作品とは異なる力強さがあります。筆致、構成、器形、余白。それぞれを個別に分析することはできますが、作品全体から受ける迫力には、最初にその表現を成立させたもの特有のものがあるように私は感じます。
これは「中国だから優れている」という意味ではありません。当時の地理的、政治的、文化的、技術的条件が中国という場所で重なったことによって、それまで存在しなかった表現が生まれた。そして、それが周辺地域や後世の文化に伝わっていった。模倣することはできても、その表現が最初に生まれた瞬間にしか存在しない強さがある。私はそこに、美術におけるオリジナリティの一つの意味を見るのです。
世界を循環する市場
作品が世界へ移動した結果、中国陶磁には極めて国際的な市場が形成されました。ヨーロッパ、アメリカ、日本、香港、台湾などに重要なコレクションが形成され、オークションや美術商を介して作品が国境を越えて移動してきました。市場の中心も一定ではありません。
1970年代以降、日本の美術商がロンドンやニューヨークなどへ頻繁に赴き、欧米にあった中国美術を日本へもたらした時代がありました。その多くは日本のコレクターに収まり、後に美術館のコレクションとなった作品もあります。そして2000年代以降、中国本土の経済発展とともに新しいコレクター層が形成されると、それまで欧米や日本などに存在していた中国美術が再び中国へ向かう大きな流れが生まれました。
世界各地に作品があり、世界各地にそれを求める人がいる。この地理的な「広さ」と、各地域で長い年月をかけて形成されたコレクションの「深さ」が、中国陶磁市場の特徴だと思います。
市場価格と美的価値
ただし、市場が大きいことと、美術的に優れていることは同じではありません。美術的価値と市場価格は、一概には一致しないものです。市場価格は、その時代の経済力、需要、流行、コレクターの嗜好によって変化します。
1980年代から90年代に日本の買い手が強かった時代には、日本のコレクターが好む作品が市場でも高く評価されました。その後、中国本土のコレクターが大きな存在になるにつれて、求められる作品にも変化が起きています。つまり、市場価格は比較的短い時間軸で動きます。
一方、美的価値を測ることははるかに難しい。何をもって美術的に優れているとするのか。その尺度を数値化できないからです。それでも私は、50年、100年、さらに長い時間をかけて、多くの人が作品を見て、比較し、考えることによって、美術的な評価は少しずつ形成されていくものだと思っています。
短期間で変化する市場価格を追い続けても、美術の本質が見えてくるとは限りません。もし投資だけを目的とするのであれば、金融商品など、より効率的な選択肢があるでしょう。美術品を所有するのであれば、市場の動きだけではなく、自分自身が美しいと思うものを選び、その作品と時間を共にする。その方が、最終的に得られるものは大きいのではないかと私は考えています。
作品を知る前に、自分自身を知る
中国陶磁に興味を持った人に、最初から時代や窯、技法を覚えることを勧める必要はないと思っています。機会があれば、東京国立博物館やメトロポリタン美術館など、中国陶磁を数多く所蔵する美術館へ行ってみる。そして最初は説明文を読むことよりも、作品を見る。
「どれが美しいと思うのか」
「なぜこの作品の前で足が止まったのか」
「どの作品なら、自分のそばに置いて時間を共にしたいと思うのか」
そんな見方から始めればいいと思います。
私自身は南宋官窯に非常に強く惹かれます。しかし、それを「最高だから見なさい」と人に押しつけたいとは思いません。その人にとって最も魅力的なものは、展示室の片隅に置かれた真っ黒な茶碗かもしれない。白く小さな合子かもしれません。自分がそこに美しさを感じたのであれば、まずはそれでいい。
その後で、「これは宋時代なのか」「龍泉窯とは何だろう」と知識を重ねていけば、他の作品との比較ができるようになり、見る楽しみはさらに深くなっていきます。
国宝だから、著名な研究者が評価しているから、高額で取引されたから、中国のものだから。そうした情報はいったん脇に置いて、一つの美術品として作品の前に立ってみる。そして、自分は何を美しいと感じる人間なのかを考えてみる。
作品を知る前に、まず自分自身を知る。
中国陶磁を知ることは、歴史や技法についての知識を増やすことだけではありません。作品を見ることを通して、自分自身の美意識を少しずつ知っていくことでもあるのだと思います。
―平野龍一
